第48回いそご文化資源発掘隊 まち歩きが楽しくなる神社の話②
(2020年2月8日開催)
今回はキャンセル待ちがでるほどの盛況でした。
会場は杉田八幡宮の神楽殿。会議室みたい。寒くはなかったね。
「まち歩きが楽しくなる神社の話」第1回は2018年12月16日に、根岸駅前のモンビルの会議室で行いました。今回は、それに続くシリーズ第2弾です。
前回のお話の項目は…
◆明神や権現って神社なの?
◆鳥居の形はどこでも同じ?
◆歳神様って?
◆伊勢山皇大神宮はどこの村の鎮守?
というようなことを解説してもらいました。で、今回の話題は、
◆八幡橋近くにある二つの八幡神社
◆九州から近畿・鎌倉を経て東国へ来られた八幡さま
◆岡村天満宮の天神さまも九州から
◆菅原道真は怨霊から学問の神さまへ
◆日枝神社の山王信仰とは
◆森浅間神社における修験道との習合
◆中原熊野神社 院政期の熊野詣が始まり
◆戦後に奉還された六か村の神社とは
◆古くて新しい若宮御霊神社 平安期の勇士伝説
◆海沿いと農村 それぞれの特徴
という内容で開催しました。
講演に先立ち、会場を貸してくれた三浦宮司のごあいさつから
・本日は、当杉田八幡宮にようこそおいでくださいました。宮司として当宮の由緒と歴史をご紹介します。
・平安時代中頃、源頼義・義家父子が奥州遠征しました。戦勝を祝い、山城国の石清水八幡宮を頼義は鎌倉に創建して今の鶴岡八幡宮になり、義家は杉田に八幡宮を鎮祭し久良岐郡の総鎮守としました。
・源義家は石清水八幡宮で元服をするなど源氏は八幡宮を篤く崇敬していました。頼朝は鎌倉に幕府を開くときに立派な社殿の鶴岡八幡宮を創設しました。
・その後、杉田八幡宮はいったん衰退したようですが、江戸時代に間宮家当主が妙観寺を別当にして再興を果たします。明治になり神社と寺は切り離されることになり、別当は解任されました。これから八幡宮をどうしようかと、時の住職が住民たちと相談した結果、住職は還俗して三浦姓を名乗り宮司となり、杉田の鎮守として存続させることになりました。明治十九年火事で焼失したものの同二十九年に再建され現在に至っています。
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ここから講演録
小沢朗と申します。神社ソムリエという肩書を杉劇館長から頂きました。神社のことは、その神社の方が一番詳しいのですが、私はソムリエなのでワインそのものというよりは、ワインの選び方とか味わい方に役立つような情報をお知らせします。今日は、まち歩きが楽しくなる神社のお話ということですので、楽しく歩くための御提案をいたしましょう。
はじめにまず、今年になってから神社に行った方、初詣をされた方は?ほとんど全員ですね。
近くの鎮守さまに行かれた方、少し遠くに電車で行かれた方?どちらもいらっしゃいますね。前者が少し多いでしょうか。お正月になると神社へお参りに行く。ほどんどの方が習慣として行動しておられる。神社なりそこにおられる神様というのは、そのように生活に溶け込んだ存在なんだろうと思います。
1 神さまの探し方
神さまは八百万の神、というように大変沢山いらっしゃいます。どの神社にはどんな神様がいるのか、それはまず神社の名前から分かります。
〈八幡〉の神がいる神社の名前は、八幡神社、八幡宮、八幡社、若宮神社…
〈伊勢〉の神は、神明社、神明神社、神明宮、皇大神社…
〈天神〉は、天満神社、天神社、菅原神社、天満宮…
〈山王〉は、日吉神社、日枝神社、八王子神社、日吉社…
神社の正式名称は上記のような神名だけが多いのです。例えば磯子区内の3つの八幡神社はいずれも正式名称は「八幡神社」だけなのですが、それでは区別がつかないので、地名をつけて通称としています。
では、栗木神社、田中神社、氷取沢神社、上中里神社など地名だけの神社名では、どのようにして分かるのでしょうか。それは、各神社にお祭りされてる祭神の名前から知ることができます。
例えば、八幡神なら応神天皇(別名は誉田(ほむだ)別(わけの)尊(みこと))、神功皇后(別名は気(おき)長足(ながたらし)姫(ひめ))応神天皇のお母さんです。そして、比咩(ひめ)大神(おおかみ)。
伊勢の神様なら、天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)、豊受(とようけの)大神(おおかみ)。天神さんなら、菅原道真。熊野の神様は伊弉冉(いざなみの)尊(みこと)、速(はや)玉(たまの)大神(おおかみ)(別名は伊邪那(いざな)岐(ぎの)大神(おおかみ))、事(こと)解男(さかおの)命(みこと)など。山王の神様は、大己(おおな)貴(むちの)命(みこと)、大山咋(おおやまくいの)命(みこと)。
神社には、社名から明確でなくても、祭神の名前が表示されています。
さて、神社の名前などから神様が分かるわけですが、それぞれの神様はグループになっています。学術的には「信仰形態」と言います。現代において、それぞれどんな神様グループが多いのかを調査した結果が明らかになっています。
神さまの分布数順(社数の1~5位)をご紹介しましょう。これは、『全国神社祭祀祭礼総合調査』神社本庁、『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁から整理したものです。
全国的に見ると、1八幡 2伊勢 3天神 4稲荷 5熊野 の順です。
神奈川県内では、 1八幡 2伊勢 3熊野 4山王 5杉山 という順です。
横浜市域では、1伊勢 2八幡 3杉山 4稲荷 5熊野 となります。
市域では、伊勢が1位になっています。3位の杉山神社というのは、横浜市と川崎市北部の主に鶴見川流域だけのローカルな神社群です。
次に神さまとは、どういうものなのか、その定義を見てみましょう。
江戸時代の国学者、本居宣長は神さまを次のように定義しています。
〈本居宣長の「かみ」〉
凡(すべ)て迦微(カミ)とは、古(イニシヘノ)御典(ミフミ)等(ドモ)に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、其(ソ)を祀れる社(やしろ)に坐ス御霊(ミタマ)をも申し、又人はさらにも云ハず、鳥獣(トリケモノ)木草のたぐひ海山など、其余(ソノホカ)何(ナニ)にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ)き物を迦微(カミ)とは云ふなり…
(すぐれたるとは、尊(タフト)きこと善きこと、功(イサヲ)しきことなどの、優(スグ)れたるのみを云に非(あら)ず、悪(アシ)しきもの奇(アヤ)しきものなども、よにすぐれて可畏(カシコ)きをば、神と云なり…)
このように、いろいろなもの、ことに神を感じるのが私たちの祖先からの感性といえるでしょう。
野球の世界では、古くは「神様、仏様、稲尾様」と言われましたし、近年では楽天時代の田中投手のことを野村監督が「マー君、神の子、不思議な子」と評しました。
そのようにして古くから形づくられたのが、私たちの神さまの感覚を一つのまとまったものとして神道なるものがあります。これを世界宗教であるキリスト教、イスラム教、仏教などと比較してみるとどうなるでしょうか。
☆神道の特徴(世界宗教との比較から)
教祖・創設者がいない、創設時期が明確でない、教団がない、教義・教典がない、八百万の神、日本の文化・生活習慣のなかにある、地縁・血縁の共同体が基盤、基本的に日本列島内。他の宗教(特に仏教)と共存している。
というようなことが特徴として挙げられると思います。
この神道は、この日本列島に稲作が定着してから今日にいたるまで、大体千数百年の歴史を辿っています。それをキイワードを並べる形で、ざっとご紹介しておきます。
☆千数百年の神道史ミニメモ
古代=神道の成立前、共同体祭祀、仏教伝来、古代国家の成立、『古事記』『日本書紀』
沖ノ島・大神神社の祭祀遺跡、律令制、伊勢と出雲、杉山神社、式内社・一宮中世=荘園と武士。個人祈願、参詣、勧請、神仏習合、神道説、戦国時代と天下統一
御厨、熊野三山、鶴岡八幡宮、瀬戸神社、式年遷宮の中断・復活
近世=江戸時代の庶民信仰、村の鎮守、伊勢詣、町や村の祭礼、神田祭・山王祭、祇園祭、講と御師、本居宣長、東照宮、『江戸名所図会』、『新編武蔵風土記稿』
近代=明治維新と祭政一致、神仏分離、社格制度、一村一社合祀政策。戦後改革。
伊勢山皇大神宮、鎌倉宮、明治神宮、教派神道
これから後のお話にも、この流れが出てきます。思い起こしつつ、お聴きください。
2 神さまの坐すところ
坐す(ます)とは、そこにいることの尊敬的表現です。
まず、神社の「立地」についてです。神社は、山頂、山腹、山裾、水辺などに立地していることが多いと思います。実際には、見晴らしの良いところ、大木・巨岩のあるところ、山中の平場、波打際など、神さまを感じるところ、神聖な場所、祭祀を行うのにふさわしいところです。神社は、そのような然るべき場所に立地していることが多いです。
ご存じの神社は、如何でしょうか。
神社につきものなのが、「鎮守の森」です。
立派な森が神社周辺にあり、森の中に神社があるような場合もあります。社殿の背後が森になっていることもあります。また神社の境内に大きな木があって森のように見えるものもあります。神社と木々は切り離して考えられません。
もう一つ、注目したいのが「周辺環境」です。神社の回りにある山、古道、田畑、町並み、川・湖・海、眺望などに着目したいと思います。周辺の環境全体のなかで神社の位置を見てみるとどうなるか。次の模式図がそれを的確に表現していて面白いので説明しましょう。
〇垂直軸〈非日常的〉
山から下りて里・田に至る。
山は信仰の対象。神さまの通り道。
参道でもある「信仰軸」。
水源から田への水の流れでもある。
祭のとき、神は里宮を出て御旅所(かつては田宮)へ下る。
〇水平軸〈日常的〉
山裾の平地を水平に伸びる線。
家並があり、街道(古道)が通る。
日常生活の中心的な場。他村、他地域とを結ぶ「経済軸」。物資や情報など交流の軸線でもある。
『プレステップ神道学』から
これは、模式図ですから、実際は地形、方位、道の付き方、田畑の位置などとの関係で、これとぴったり同じというわけにはいきません。しかし、個別の神社ごとにさまざまな工夫をしつつ、この基本を踏まえた関係にあることが分かってきます。こういうことを意識して探しながら神社とその周辺をみると、まち歩きは格別に面白いものになってくると私は感じています。
せっかくですから、磯子区内の神社と古道との関係を地図でみてみましょう。今日の会場である杉田八幡宮の周辺環境をみると、裏に山があり古道が神社の前を横に走っていることが分かります。洋光台、田中、栗木の各神社も古道に沿っています。
『磯子の史話』から 伊東一夫『笹下城址の幻』から
神社は神様をお祭りするところですが、そのお祭りとは元々どのようなものだったのでしょうか。祭の原型とされるお話が『古事記』という神話に描かれています。その粗筋を資料に載せましたので読み上げます。
☆祭の原型(『古事記』から「天の石屋戸」あらすじ)
天照大御神が岩戸の中に隠れてしまい、この世に太陽の光がなくなり困ってしまいました。そこで神々が相談して、鍛冶の神に鏡を作らせ、玉の神に勾玉と珠を作らせ、祭を奉仕する二神のうち一人が鹿の骨で占いをして枝葉の繁った常盤木を掘り出して、上の方に珠、中ほどに鏡、下の方に布を垂らしたものを立派な飾り物として持ち、もう一人が祝詞を朗々と唱えました。
剛力の神が岩戸の陰に隠れ、踊りの神が飾りをつけて桶を伏せた上で足踏みしながら肌もあらわに神がかりになって踊りました。そこで神々はどよめいて大笑いしたのでした。天照大御神はどうしたことかと、岩戸を開けて出てきたところで、剛力の神が外に引っ張り出してしまいました。太陽が戻って再びこの世界は明るくなりました。
祭には二つの要素がある、とされています。ひとつは「祭儀」(秩序を重んじた儀式)、もう一つは「祝祭」(賑わい、歌舞音曲、飲食、興奮…)というものです。『古事記』でのお話からも、分かりますし、現代のお祭りからも、この二つの要素があることが分かります。
「祭の場所」について考えてみたいと思います。『古事記』の成立は712年、7世紀ごろのお話をもとにまとめられています。一方、考古学の成果として、それ以前に残された祭祀の跡が発掘されています。世界遺産の沖ノ島や奈良県の三輪山ほか全国の遺跡から4~6世紀の祭祀遺物が出土しています。宗像大社沖津宮(沖ノ島)では、巨岩の上や陰に銅鏡や勾玉、刀剣、馬具などが出てきました。大神神社の三輪山麓は禁足地となっていますが、そこにある巨岩周辺から銅鏡、勾玉、高坏、壺、甕などが発見されています。このような祭祀遺跡は、東北から九州の各地に祭祀遺跡があり上記のような祭器具などがまとまって出土しています。場所としては、島や山中のほか、集落の中、河川・海辺、岬の先端、峠道の頂上などです。
以上のお話をまとめますと、次のようになるかと思います。
まず、‘まつり’の場があって、その施設を常設化したものが神社です。古代国家の形成時期に、後の神社や神道信仰の原型が姿を現し始めていました。‘まつり’の場に相応しい立地の感性が受け継がれて、神社が建てられ、また遷されました。その時代の人たちなりに、考えた場所に神社を作って神さまをお祭りしている、という風に見ると、神社とその周辺環境を観察しながら歩くことが一段と面白くなると思います。
3 選ばれる神さま
(1)私たちと神様との関係
古代には、神様は村々それぞれにいらっしゃるものでしたが、中世以降は外から神様をお呼びする、勧請してくる、ということが多くなります。自分たちの村を守ってくれる立派な神様、強い神様を選んで来てもらうというように変わります。
そのような、私たちと神さまの関係を整理してみましょう。
まず、昔からあったのが氏神型です。これは、古い伝統的形式。氏族や地域の神が祀られ、共同体祭祀が中心。他の氏族は祭に参加できない。個別の祭神名や神徳などは顕在化されず、地名と社名が同じくする例が多い。という特徴があります。
次は、勧請型です。平安時代以降、個人祈願や現世利益の願望が強くなり、霊威ある神々が各地域(荘園、新田)に勧請された。神仏習合の色彩が強い。祭神の神格・神徳を顕彰、宣揚する。各地域の武士や農民が勧請したり、御師や修験者が広めたりした。というものです。
その次、と言えるのが崇敬型です。村の鎮守が地域限定的なのに対し、広い範囲から参拝者を集める名社。旅や行楽が盛んになる江戸時代ごろから増加してきます。
この三つの型は、歴史的には氏神型を基本に勧請型が重なり、現在では二系統が混在した形で存続しています。一社で複数の性格もあり、その混在程度はさまざまと言えるでしょう。
(2)神さまの生い立ちと広がり(主なもの)
神様には、それぞれの生い立ちと広がってきた経過があります。順にみていきましょう。
まず、日本で一番多い八幡です。応神天皇の半島遠征伝説から神格化されました。九州にあって仏教の影響を大きく受けて、東大寺大仏建立や石清水八幡宮創建などで近畿に進出、皇室等の崇敬を受けて伊勢神宮に次ぐ地位を確立。また源氏の氏神とも仰がれ、源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮を整備し、東国各地にも広がりました。
場所から見ると、宇佐から近畿へ、さらに鎌倉へ。結び付いた力としては、まず仏教、そして皇室、やがて源氏。三段跳びのように、あるいは三つの力で三倍パワーとなって全国に伝播していったのです。全国で一番多くなるわけです。
二番目は、天神さんです。平安時代、大宰府に左遷された学者・政治家菅原道真の怨霊が京都で雷となって藤原氏などを苦しめたため、これを慰めるため北野天満が創建されました。それがやがて学問の神さまになり、各地に広がりました。
京都近郊での雷信仰というものがまずあって、それに道真のことがあって貴族社会の怨霊信仰と結び付いて北野天満宮となり、やがて怨霊というよりも優れた学者としての性格付けが強くなり、庶民の学業成就の祈願対象として親しまれる存在になりました。西日本で広まりました。
三番目は、山王という神様です。本来は比叡山の山の神でしたが、天台宗及び延暦寺の鎮守神、京都の鬼門除けとして朝廷等の信仰もたかまりました。天台宗寺院領の鎮守として各地に広まりました。徳川家康により江戸へ進出、日光東照宮や日枝神社につながります。
これは、比叡山(東側)の土地神が、延暦寺の守り神となり、家康と共に江戸へ進出、死後の家康を祭る日光東照宮につながるものです。
四番目は、熊野の神々です。世界遺産にもなった熊野は古くからの霊山です。平安時代には貴族層が京都から参詣に訪れて、熊野詣が盛んになりました。その後熊野御師が全国に広めていきました。海上ルートも使われたようです。江戸時代に現・磯子区内にあった泉蔵院は京都聖護院(修験本山派)の末であり、久良岐郡内を現・港南区の権現堂と二分している、と『新編武蔵風土記稿』に記されています。
熊野には本宮・那智・新宮があり、太平洋沿いに横浜方面へと伝わりました。
五番目は、その他として修験、御霊などを御紹介します。
まず、修験です。古来からの山岳信仰に伝来した仏教要素が加わり修験道となりました。富士、白山、御嶽など各地の霊山で修行した山伏が全国各地に広めました。江戸時代には修験が神社を管理することもありました。旧松本村(現港南区)の権現堂、旧中原村の泉蔵院は修験道本山派に属していました。
御霊信仰は、風水害や伝染病など社会的災疫を霊鬼的存在である御霊の仕業と怖れ、これを鎮め、平穏回復と繁栄を願うものです。御霊会(ごりょうえ)という行事によって御霊を鎮めていましたが、やがて神社の祭神となるものも現れます。天神や祇園がそれにあたります。中世以降は個人の荒ぶる霊力をもって守護神として期待されるようになります。平安時代中期の後三年の役で奮戦した鎌倉権五郎景正はその代表格であり、祭神とする神社が藤沢・鎌倉・旧戸塚区に集中している。
以上、日本で多く祭られている神様がどのように生まれて、広まっていったのかを大括りでご案内しました。これらが、現在ある神社とどうつながっているのか、そういう視点をもって、勉強していくことは大変興味深いことだと思います。
4 磯子区内神社の概観
杉田劇場では、一昨年夏から磯子区内の神社について調査をしています。区内の神社は15ありますが、それを概観してみましょう。別紙資料の「神社一覧表」と「神社所在地図」をご参照しながらお聴きください。
(1)神名等からみた特徴
区内にある15の神社を神様別に見てみると、複数あるのは、八幡4、白山2、山王2となります。一方、伊勢や稲荷は現在の社名等からは見られません。
山岳系の信仰は、白山2、山王2、浅間・熊野・金山各1…と約半数となります。磯子区はその名のとおり海辺のエリアですが、山の神様が多いのは意外にも思えます。皆様はどのように感じられますか。
また、明治以降に神社の合併が行われてきており、合祀により複数の祭神が一つの神社で一緒に祭られているというケースも多々あります。
(2)地理的に見た特徴(海辺、山辺)
海に面した磯子区ですが、そのなかでも海に近い神社では、お祭の日が8月であるところが多いです。神体が海上から漂着したという伝承や、神輿が海に入って渡御したということも行われていました。一方、区内でも内陸にある神社では、祭日が9月・11月が多い。この祭日というのは、歴史的なもの公式の日付であって、実際には人が集まりやすい日程で行事が行われていることもあるようです。
また、神社があることにより、八幡橋、天神道路、山王台小学校等という名称の元にもなって知られています。
(3)歴史的な変遷
磯子区内の神社数は時代と共に変遷しています。江戸時代後期の『新編武蔵風土記』では67社の記載がありました。昭和初期の『横浜市史稿』には村社が8社。戦後の昭和50年代では『神奈川県神社誌』に13社掲載され、その後 平成になって再建されたものなど現在15社となっています。
昭和初期から戦後に神社数が増えたのには経過があります。明治末、一村一社となるよう合祀を進めた政策のため、六か村の9社が栗木の日枝神社に合祀されて上笹下神社と改称されました。終戦後、各村に神社が奉還されて、栗木・田中・金山・峰・上中里・氷取沢の6社となったのです。
同じように明治末、笹下村松本の神明神社に合祀された若宮八幡宮と御霊権現社は、平成元年洋光台一丁目に再建され若宮御霊神社となりました。
このように戦前に合併された神社が、戦後になって各地域に戻ってきた、それも合計7社にもなる、という例は横浜市内では殆どなく磯子区内に特徴的なことです。
(4)地域で支えられた文化資産
別の視点から区内の神社をみてみましょう。本務の神職さんがいる神社は7社あります。約半数です。全国平均の13%をかなり上回ります。一社あたりの神職さんの人数は1~4人です。
現在ある15の神社はいずれも『新編武蔵風土記稿』に由来をもっています。そのうち多くは村の鎮守でありました。
以上、みてきましたように、神社は村の人たちの暮らしと密接につながった心の拠り所であり、その祭は、地域の人たちによって担われてきました。神社と祭りは、長い歴史に培われた地域固有の文化資源ということができるでしょう。
◎主な参考文献
岡田荘司編『日本神道史』吉川弘文館、平成22年
國學院大學日本文化研究所編『【縮刷版】神道事典』弘文堂 平成11年
阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂 平成23年
新谷尚紀『氏神さまと鎮守さま 神社の民俗史』講談社 平成29年
〈プロフィール〉
小沢 朗(おざわ・あきら)
昭和31年静岡県生まれ。横浜市役所に35年間勤務の後、平成28年國學院大學神道文化学部卒、同31年同大学院前期課程修了。修士(神道学)。神社神職(非常勤)、磯子区民文化センター杉田劇場調査員。洋光台五丁目在住。
小沢調査員の「磯子の神社に関するイイ話」へ ←クリック!
第49回いそご文化資源発掘隊「NTTのケーブル名は歴史の生き証人」
洋光台編
(2020年11月13日開催)
たまには上を向いて歩こう♪ NTTのケーブルには、それぞれ線路を示す名称がつけられているのが分かります。洋光台では柄沢、弁才などという昔っぽい名前が。あるいはBとかGといった謎のケーブル名もあります。そんなプレートを見ながら洋光台の歴史散策を楽しんでみました。
現地で見たこれらの名称は何を意味するのでしょうか。各種資料を基に調べてみました。
「矢部野」。これは洋光台地区の昔の町名だ。現在の町はこの矢部野町のほか、栗木町・田中町・峰町・日野町・笹下町の一部を取り込んでできました。その町名がケーブル名に残っているのです。
「弁才」。これは昔の字名ですが、その由来自体は不明。もしかしたら、どこかに弁財天があったのかもしれない…。
【当日歩いたコース】
洋光台駅前~弁財橋~金山神社~歴史的な一直線の道~薬王寺~洋光台西公園~墓地~こども宇宙科学館~洋光台駅前
歩く距離は約2.8キロ。あまり坂がない道です。
この日の集合場所はJR洋光台駅前。雨の心配もなく、ごきげんな快晴でした。募集人数は20名。そこに27名の応募がありました。
できるだけ多くの方々に参加してほしかったので、キャンセル、辞退者を除いて総勢24名のまち歩きとなりました。
集合時間は13時だったのですが、みなさん待ちきれなかったのでしょうか、時間前に全員が集まりました。
駅前でスタッフが参加者全員を検温し、手指の消毒をしてもらい、注意事項や今回の説明を聞いたあと、2班に別れて出発。
新型コロナの感染拡大が続いているため、参加者は密集することなく最初の電柱を目指して行きます。本来ならば縦長の隊列にはしたくなかったのですが、現在の状況を考えれば仕方ありません。
最初に見たのは「弁才支」と名付けられたケーブル名。
「支」は支線を表していますが、弁才本線というのはありません。
さて、この「弁才」とは何なのでしょうか。現在の洋光台地区でこの名を見るのは、ケーブル名の他に根岸線をまたぐ橋だけのようです。
昔の『土地宝典』や昭和46年の住宅地図を見ると、字名として「弁才」が表示されていることが分かります。字名をケーブル名に使用するのはよくあることなのですが、この字名そのものは、どういうゆらいがあるのでしょうか。もしかしたらこの辺りに弁財天があったのかもしれませんね。
ケーブル名の下に書かれているアルファベットと数字は電柱の管理番号です。たいていは1番から始まり、その次が2番、さらに3、4、5……と続いていきます。
しかし、ケーブルは途中で右や左の道路に入ったりもしています。たとえば3番の電柱のところで、そのまま進むケーブルもあれば、ここで右の道路に伸びているのもあります。そういうときは/の上にR1を加えています。
この写真の例でいくと、1番電柱のところから右に入って9番目の電柱、さらに右に入って4番目の電柱、さらにそこから左に入って4番目の電柱、さらに右に入って1番目の電柱という意味です。
このあと確認したのは来光寺、矢部野といった昔の施設名や地名を引き継いでいるものたち。
来光寺というのは現在は薬王寺に統合されており、建物だけが薬王寺の敷地内に建っています。
さらに進んでいくと、こんなのが現れました。なんと2段になっています。おそらく2つのケーブルが1本の電柱に共存しているのでしょう。
上段は「第一矢部野支線」です。矢部野というのは洋光台の昔の地名ですから、エリア的にはかなり広いのでしょう。
だから第1矢部野と第2矢部野と2系統に分かれているようです。
下段の「左右手」は「そうで」と読みます。笹下川近くの字名で、支流は左右手川と呼ばれています。
左右手という字名の由来となる川だったのかもしれませんね。
金山神社で小休止。と同時にこの神社の解説をしていただきました。
先行している第1班はこの日の講師である吉澤さん。第2班は杉田劇場調査員の小沢さんです。神社の由来については……
創立年代は不詳ですが、昔から矢部野町の鎮守、金山比古神社として崇敬されてきました。明治45年、栗木町の日枝神社に合祀され、上笹下神社と改められましたが、昭和22年、旧社地に再び社殿を奉建して、社名を矢部野神社と定めました。昭和32年に至り社名をもとに戻して金山神社としました。
鎌倉時代、この地域は武器を製造するための製鉄を行っていたという場所であることから、「金山」という名称ができたと言われています。
左の地図は昭和44年の矢部野町です。新しい町・洋光台を開発している最中ですので、古い町と計画している街路とが、重ねて表示されています。
しかも、等高線も入っているので、このエリアの変貌がよく分かる地図なのです。
黄色く塗った道が、当時の主要道でした。
右端に鳥居の記号が描かれています。ここが金山神社で、現在と同じ場所にあります。
左端に赤い四角で囲ったところには観音堂とかかれていますが、ここが現在の薬王寺です。
黄色い道は金山神社と観音堂を結んでいました。というよりも道路に接続して両者が建っていたとも言えます。
この地図から新しい計画道路は、この古い主要道をなぞるような形で造られたことが分かります。
この道路が地図上に示した黄色い道路の現在の姿。奥が金山神社方面だ。
その道の中程にこのようなお地蔵さんがある。民地に引っ込められて立っている。
昔の旧道の真ん中にあったから村中地蔵と呼ばれていた。
明治の初めに、廃寺となっていた来迎寺と金山寺を合わせて「来光寺」が建立されました。その後、洋光台の開発で来光寺が取り壊され、昭和46年にもとの来迎寺があった場所に来光寺を再建。
現在はこの場所に薬王寺があり、門を入って右側に来光寺の御堂があります。
ケーブル名に残っている「来光寺」はここのことなのです。
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