第50回いそご文化資源発掘隊 まち歩きが楽しくなる神社のお話③
(2021年3月10日開催)
第1部 お囃子演奏 岡村囃子一友會
第2部 まち歩きが楽しくなる神社のお話③
第1部 お囃子演奏
出演:岡村囃子一友會
第2部 まち歩きが楽しくなる神社のお話
講師:小沢朗(神社ソムリエ)
磯子区には15の神社があり、それぞれお祭りが行われています。平成30年、令和元年とお祭りの現場を見せていただいたり、お話しを伺ってきましたが、この1年はコロナでお祭りが縮小され取材活動もできませんでした。このようなお話しをする機会も3回目になるのですが、今年は実際のお祭りができない、見られないという時期だからこそ、お祭りの起源からその後の発展などを振り返る機会にしたいと思います。大きなテーマです。ステイホームして勉強したことを、私なりに整理した流れでお話しいたします。
私の先祖は江戸時代を通して静岡の山奥で代々神職をしてきました。当時の神職免許状も残されています。曾祖父までは神職だったのですが、祖父と父の代では誰も継ぎませんでした。私は60歳近くになってDNAに呼び覚まされたように神道の勉強を始め、資格を取得し、小沢家では百年ぶりに神職が復活しました。
もう一つ事前質問をいただいたのが、「神社ソムリエ」という肩書きは公的な資格なのか、ということです。これは杉田劇場の中村館長がつけてくれました。親しみやすい感じがよいとのことだと思います。
ソムリエとは元々レストランで客の相談をうけてワインを選定・提供する専門職です。各神社のことは、その神社に聞くのが一番です。私は神道全般からみたご案内役かと思っています。まだまだ勉強途上ですので、皆さまからのご意見ご助言で、育てていただければと願っています。
本題に入ります。
祭りの起源は、『古事記』や『日本書紀』という日本最古の書物に求めることができます。
『古事記』には「天岩戸伝説」という一章があります。
神代の昔、太陽の神アマテラスが岩戸の影に隠れてしまい、この世に日の光がなくなり困ってしまいました。皆で相談して何とかしようと、榊を立てて飾りをして、祝詞をあげてお祈りをしました。そして踊りをして皆が盛り上がったところで、アマテラスの気を引いて、こちらに引き戻し太陽が復活した、というお話しです。
このアマテラス(天照大神)は二つの性格をもっています。太陽の神であり、皇室の祖先神です。古事記には擬人化された神さまが描かれています。昔の人は、自然現象など知識で理解できないことは、神さまの仕業を考えました。神さまを人間とみたてて、喜んでもらうようにオモテナシ(飾り、踊り)をして、お祈りのコトバ(祝詞)を申しあげたのです。
このようなお祭りは、もともと屋外の山のなかで行われていました。そのような場所に常設の施設を設けたのが神社の始まりです。ですから神社は神さまが居る場所に相応しいところにあります。後に創建されたり、移った神社も当時の人たちが、神さまを感じるような場所を選んだのでしょう。山の頂であったり、中腹であったり、山を背負っている、あるいは水辺など。社の前には古道が通っていたりします。近くの神社がどんな立地なのか、まち歩きのとき、そのような観察をするのも楽しいと思います。
『日本書紀』には第10代崇神天皇のお話しがあります。疫病が流行って国の半数もの人が亡くなってしまうのですが、仕組みを整えて神の祭りをしっかりと行ってことにより、災難が去ったというものです。その仕組みとは、三点あります。
第一に神さまを祭る場所が家の中から公共の場所になったこと。
第二に各地域でそれぞれの神さまを祭るようにしたこと。
第三に経済的に支える仕組みをつくったことです。今でもお賽銭の習慣として続いています。このような仕組みが整えられたことにより、人々は安心して祭りに参加し、共感しあって不安を解消することができたのではないでしょうか。
お祭りは、その後発展をとげ現代に続いてきます。中世では、京都祇園祭りなど都市の祭礼が始まります。江戸時代には中心地江戸で発展し、それが地方都市にも伝わります。祭には、神輿、山車(だし)、囃子がつきものです。
神輿は神さまがお出かけする時に乗る物です。神体または神霊が遷されます。奈良時代に最初の神輿が出たようです。
山車は動く建築物で、飾り付けを見せたり、芸能の舞台になったりします。その原型は平安時代京都に登場します。
囃子は、笛、太鼓、鉦で構成される音楽です。囃す、とは楽器や歌で賑やかにすること。
祭りの行列は、山車・神輿などで構成され、江戸後期に確立します。それが各地に広がり、横浜にも伝えられました。
幕末の開港後に急発展した横浜に総鎮守伊勢山皇大神宮が明治3年に創建されました。山車が十五本、ほかに踊りなどが加わり、たいそうな賑わいであったと伝えられています。当時の写真や版画などが残されています。
磯子区内の事例をみてみましょう。森浅間神社の山車は江戸後期のものです。根岸の榊神輿は横浜市指定無形民俗文化財です。八幡橋八幡神社や杉田八幡宮には見事は神輿があり、例祭で町内を巡幸します。その取材は一昨年夏にさせてもらいました。岡村天満宮には10基の神輿と1台山車の山車があり、昨年夏に拝見するのを楽しみにしていましたが、コロナでかないませんでした。
岡村のお囃子は第一部で演奏くださいました。岡村では神輿と囃子の会が昭和53年に発足したのですが、戦後しばらくは出番がなかったものを復活させたそうです。根岸の榊祭りも戦後の埋め立てでやらなくなったのを昭和60年に地元の人たちが復活させました。
磯子区には現在15の神社がありますが、そのうち7社は戦後に再建されたものです。明治末に国の政策により神社統合が進められ、地元の神社がなくなってしまいました。
終戦直後の昭和22年、栗木・田中・金山・峰・上中里・氷取沢の6村では自らの村に神社が戻ってきました。平成元年には若宮御霊神社が洋光台一丁目に再建されました。令和元年秋には台風でいくつかの神社が被害を受けたそうですが、修復がなされつつあるとお聞きしました。
自然災害といえば、明日で東日本大震災から10年を迎えます。被災地では祭りを復活させることで地域の絆が戻った、力がわいてきた、という声が聞かれます。同時に過剰な価値を構築してしまうことへの配慮も必要なようです。担い手のプレッシャーになってはいけません。
このように、お祭りはその起源から今日まで、再生と復活の繰り返しでありました。古くからあったものが淡々と続いてきたのではありません。地域の祭りは地域が担っています。困ったときこそ、お祭りを楽しく!疫病と自然災害がないように、収穫と成長を願うのは古代から同じです。復活と再生は、DNAとして地域に組み込まれているように感じられます。
祭りという文化には、担い手となる人、支える人、応援する人がいます。それぞれが、できることを、できるときに、できる範囲でやるということが、再生と復活につながるように思います。
以上、祭りの起源から今日までの流れを私なりに整理したお話しいたしました。皆さまは如何お感じになられましたでしょうか。
以上、祭りの起源から今日までの流れを私なりに整理したお話しいたしました。皆さまは如何お感じになられましたでしょうか。
第51回いそご文化資源発掘隊 校歌と市歌 もう一つの真実
(2021年10月24日開催)
出典:『横浜ふるさと歌物語』はまぎん産業文化振興財団
会場:横浜市八聖殿郷土資料館 2階展示室
参加者:33人(新型コロナ感染防止のため定員の50%で実施)
講師:清水一徹(杉田劇場職員)
演奏:中村牧(杉田劇場館長)
地域を歌った《ご当地ソング》といえば、「ブルーライトヨコハマ」や「伊勢佐木町ブルース」などが有名だが、関東大震災後に原三溪が作詞した「復興小唄 浜自慢」がある。その2番に、♪屛風ヶ浦の朝なぎに~という歌詞が出てくる。この歌は忘れられているが、現代では校歌の中に地域の風景が登場している。そんな校歌を調べていくと、知られざる歴史が発掘された。
そして開港50周年を記念して作られた横浜市歌。いま皆さんが知っているような歌になるまでには、さまざまな変遷があった。
今回の発掘隊では校歌・市歌・県民歌・国歌にまつわるそれぞれの事情を、演奏などを交えながら解き明かした。
今回は八聖殿に古いオルガンがあることから、同館との共催という形で開催することになった。主な内容は以下のとおり。
【浜自慢(復興小唄)と磯子小唄】
大正12年に発生した関東大震災から2年後の大正14年、「横浜に活気を取り戻そう!」というところから、「濱自慢」別名「復興小唄」が生まれた。作詞は原三渓。
この歌詞には、磯子区民にとって興味深い一節がある。
♪よこはまよいところぢゃ 青葉若葉の町つづき
屏風が浦の朝なぎに 富士がめざめて化粧する~
と歌われているのだ。まだこの頃の根岸湾は八聖殿のそばまで海岸線があった時代、懐かしい風景が歌として残されている。
どんな歌だったのか、聴いてみよう。
続いて紹介するのは、『磯子小唄』。
♪磯子通ひの 自動車止めて
乗ったがゑにしの もつれ髪 もつれ髪
よいよいよいよい 殿見
♪磯子泊りに 嬉しい一夜
あかしていわれぬ
胸の内 胸の内
よいよいよいよい 口舌(以下省略)
大正時代から昭和30年代にかけて、芦名橋あたりに「花街」が栄えていたのは有名な話。昭和初期の活気ある街並みと自然が共存していた磯子の風景が、三味線と歌によってしみじみと描かれている。
この曲は東京美術学校を卒業したのち、新聞記者を経て古典邦楽、日本民謡の研究家となった町田佳聲(かしょう)によるもの。
彼は昭和初期には独自の改良を施した「写音機」という、蓄音機を肩にかけて運ぶようなレコーダーを用いて民謡収集で全国を巡るなど、極めて精力的な研究を行っていた。その40年近いフィールドワークの集大成として『日本民謡大観』を完成、日本の民俗音楽史に大きな足跡を残したことでも有名。
各小学校校歌の歌詞にみるキーワード
【小学校校歌】
この企画を立ち上げるにあたり、横浜市内の小・中学校の校歌にはどのようなものがあるか調べ始めた。『海ゆかば』で知られる信時潔や、オペラからポップスまで幅広い作品で知られた高木東六など、有名な作曲家による作品が数多く残されており、中でも興味深かったのが加山雄三作曲、岩谷時子作詞による小机小学校の校歌。
【中村牧によるオルガン演奏】
加山雄三らしさ、という点よりも、シンコペーションを多用した、割とポップな、まさに歌謡曲的な雰囲気が感じられた。
もう少し範囲を絞って、磯子区内の小学校の話をさせていただく。洋光台第一小学校校歌の作曲は、『小さい秋』や『夏の思い出』などで知られる中田喜直によるものである。その他、作詞・作曲に携わった有名人の名前が数多く見受けられるが、今回私たちは、このリストの中に最も名前が入っている松井健祐(まついけんすけ)という人物に着目した。(写真左)
松井健祐は明治33年(1900)の東京生まれ、青山師範学校卒業後、本所の中和小学校訓導(旧制小学校の正規の教員)を経て、大正9年に東京音楽学校甲種師範科へ入学した。
卒業後は浜松師範学校、東京府立八中での教員生活を経て、昭和13年に横浜市の視学、戦後は指導主事として横浜の音楽教育に大きな影響を与えた。
府立八中時代の教え子には、戦後日本を代表する指揮者で、日本フィルハーモニー交響楽団の生みの親としても知られる渡邉暁雄がいたとのこと。
音楽の授業で音源を聴く「鑑賞教育」というものは、現在では一般的となっているが、彼が府立八中で働いていた頃は、言うまでもなく蓄音機が極めて高価なものだった。しかし、その時の岡田藤十郎という校長は、音楽教育に大変理解のあった人だったこともあり、舶来品のチニーというメーカーの蓄音機(左写真)を購入してもらうなど、松井の仕事に全面的に協力してくれたことが、彼の言葉で残されている。
そのような日本の音楽教育のすそ野を広げるきっかけを作った偉業は、もっと評価されて然るべきだろう。
磯子の校歌にかかわった人物として、もう一人挙げておきたいのが、米山正夫である。磯子で生まれ、旧杉田劇場でデビューした「昭和の歌姫」美空ひばりが、その初期に歌った『リンゴ追分』や『車屋さん』『津軽のふるさと』などを作曲した人物として、日本の歌謡曲界に大きな足跡を残し続けている。
そんな彼が、屛風浦小学校の校歌を作曲していた。制定は昭和36年5月11日。
もし、米山が書いた校歌が、ひばりの通っていた滝頭小学校だったら、さらによかったのに…といった思いもあるが、こういった形でゆかりある作曲家の足跡を残してもらえたのは、何とも素敵な話ではないだろうか。
【小学校校歌の歌詞】
校歌の話の最後に、各小学校の歌詞を比較してみよう。校歌というものは、たいてい、町の歴史とか風景が歌われているので、ご当地ソングといってもいいと思う。各校の特徴をキーワードで比較してみた。
青色が海に関係する言葉で、黄色は丘や山に関するワードです。ほかに紫色が植物。海に関わる言葉が入っていないのは「さわの里小学校」のみだ。学区が氷取沢、上中里なので「海」が入らないので当然と言えば当然かも。
逆に杉田小、浜小、磯子小、滝頭小、梅 林小、森東小では海関連のキーワードばかり。また、杉田小と梅林小に「梅」という言葉が入っているのは、杉田梅を誇りにしているからだろうか。
富士山が出てくるのが汐見台小、洋光台第1、第3小だ。学校からの風景が目に浮かんでくる。
現在歌われている「横浜市歌」
出典:『読んで知る横浜市歌』横浜市
当初の「横浜市歌」
出典:『読んで知る横浜市歌』横浜市
修正点①
修正点②
わが日の本は島國よ 朝日輝ふ海に
聯り峙つ島々なれば あらゆる國より舟こそ通え
されば港の数多かれど 此横浜に優るあらめや
むかし思へば苫屋の煙 ちらりほらりと立てりし處
今は百舟百千舟 泊る處ぞ見よや
果なく榮えて行くらん御代を 飾る寶も入り來る港
先頃東京音楽学校から横濱市開港五十年の唱歌を作って呉れと託されたから、其方で譜を新しく先へ拵えて貰って、其れへ嵌めて歌を作って見たいといった処、南教授の手に依って譜が出来上がったから聞いて貰ひたいといふ案内があったので、早速同校へ出張して譜を見、曲を聞くと、七五、七三、八七、八七、七七、七七、七七、七七、七五、七三、八七、七七といふので…
「横浜市歌に就いて」 鴎外博士談
(明治42年6月24日発行、都新聞より)
【横浜市歌】
『横浜市歌』は明治42年(1909)7月1日の横浜港開港50周年記念式典で披露されたが、現在、市民が歌っている『横浜市歌』、実は昭和41年に当時の横浜市長・飛鳥田一雄の指示により、より歌いやすい音楽へと直されたものである。
まずは、簡単に『横浜市歌』の作詞者と作曲者を紹介しよう。
作詞は有名な森林太郎(森鷗外)である。
作曲者は南能衛という人だ。明治14年(1881)、徳島県に生まれ、昭和27年に亡くなった作曲家だがが、音楽教育家としての名声がより大きく知られている。
『横浜市歌』を作曲した当時、東京音楽学校で助教授として、オルガンなどを指導していた。また、唱歌編纂掛として音楽の授業で歌う歌を作る人を決めたり、それらを教科書にするなどの仕事もしていた。
また「村祭り」の作曲者とも言われている。ちなみに、楽譜には「作詞作曲不詳」とあるが、これはこの曲が収録された『尋常小学唱歌』(1911-14編纂)が作成された当時、文部省の方針により作者は伏せられたとのことだ。これらを取りまとめていたのが、南も委員の一人だった唱歌編纂掛だった。
『横浜市歌』は昭和41年に飛鳥田市長の指示でつくられた「横浜市歌普及専門委員会」により改訂され、現在の楽譜に落ち着いたが、その過程で、どのような修正が施されたのか見てみよう。
まず、この大きな修正点①を見てもらおう。
この16分音符の箇所だが、このまま歌うと非常に歌いづらい。「しーまーじま」という部分、実際に歌うとなると「し(ぃ)ーま(ぁ)ーじま」といった感じに、16分音符の2つ目と3つ目が母音のようになるので、はっきり歌うことが難しく、あまり歌には向いていない音の書き方になっている。
ピアノとか、歌詞がない楽器での演奏では難しくないのだが、歌詞がある声特有の問題である。
演歌でいうところの、「こぶし」という歌い方に近い聴こえ方がして、このように歌うと西洋音楽的にはあまり上品には聴こえないものとなる。
修正後は、伴奏は同じ音のままだが、歌のパートだけ簡単にした結果、とても歌いやすくなった。どちらも、16分音符の1つ目と4つ目の音を8分音符にしただけなのだが、歌いやすさは段違い!
「ふーねーこそ」の箇所も、全く同じ修正をしている。
続いて、大きな修正点②のお話。
テンポはTranquillo、イタリア語で「静かに」という意味が書き足され、前の部分に比べ穏やかな雰囲気に変わる。実際の演奏でも、テンポは少しだがゆっくり目に演奏される。
そして、ここで重要なのはリズムの変更である。「~みなと」のリズムだが、「み」の前の音符が付点8部音符、「み」が16分音符、「な」と「と」が8分音符になっている。
このまま歌うと、雰囲気としては「静かに」というよりは、「勇ましい」感じに聴こえないだろうか。
この歌自体が、行進曲のように作曲されているので、そのままの流れが続いているようにも感じる。行進曲、いわゆるマーチは殆どの場合、2拍子が多いのと、快活な部分とゆったり目な雰囲気(トリオ)、そしてまた快活な部分の三部形式で作曲されていることが特徴として挙げられる。
修正後は、「み」を8分音符、「な」を付点8分音符、「と」を16分音符にした。その結果、より「静かに、ゆったりとした」雰囲気に聴こえるようになった。
リズムというものが、いかに音楽の印象を変えるか…という点でも、とてもお手本になる部分である。
さて、続いては『横浜市歌』の歌詞が、どのようにして作詞されたかという話をしていく。
作詞者である森鷗外にとって、曲に詞を付ける作業というのは初の試みだった。しかし、彼は当時の日本では非常に珍しい方法を用いて、『横浜市歌』の作詞という歴史的な作業を成し遂げた。
左の文章は明治42年に、鷗外の談話として残された新聞記事からの一部抜粋である。
この横浜へのリスペクトに満ちた歌詞だが、実は当時の人々が驚く方法で書かれたのだった。
例えば最初の七五の七は「わがひのもとは」(7字)、五は「しまぐによ」(5字)、その後の七三の七は「あさひかがよう」(7字)、三は「うみに」(3字)といった具合に、鷗外は音符のリズムと流れを意識して、歌詞を当て嵌めた。
彼は楽譜を読むことはできなかったといわれているが、ヨーロッパ文学を日本語に訳すなど多言語を用いた作業の経験が豊富だったので、言葉の韻の踏み方には長けていたと考えられる。まるでこの
楽譜を初見で歌えたかのような、見事な割振りである。
また、実は鷗外という人物は、陸軍省に入省した3年後の明治17年、軍医としてドイツの衛生学を学ぶため、かの地へ留学している。最初の滞在地であるライプツィヒでは、その1年ほどの期間でワーグナーのオペラ『ローエングリン』をはじめとする、ヨーロッパのクラシック音楽に大きな関心を持ったという。
当時で、その1年間に30公演近いコンサートに訪れたというほどの熱の上げようで、実はその体験もきっかけとなったのか、フランスの作曲家グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』の日本語訳を作成するという、当時の日本の文筆家としては画期的な作業を行ったのである。
参考までに、左の史料は鷗外自身が脚本にメモ書きをしたもの。『横浜市歌』における作詞の作業の方法と、大きなつながりがある貴重な記録の一つだ。
出典:グルックの歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』台本に鷗外がメモを書き記したもの(東京大学図書館蔵)
『横浜市歌』は明治42年7月1日の横浜港開港50周年式典の祝賀会にて、横浜市内の小学校から集められた300人ほどの児童合唱が、横須賀の海軍軍楽隊の伴奏で初演された。楽譜が完成してから僅か約2週間後、さらにペストという大変危険な伝染病の流行により、楽譜が正式に生徒たちの手に渡ったのが2日前という状況での初演だった。
選ばれた34の小学校のうち、磯子区からは3校が選ばれた。その3校とは、磯子小学校と、根岸小学校、そして森中原小学校(現在の杉田小学校)。
その後、『横浜市歌』はどのように発展、普及していったか…
よく知られているのが中村裕介のブルースバージョンだ。さらにそのブルースバージョンの小学生の合唱版にしたものを立野小学校の児童たちが歌っていた。盆踊りバージョンの『アラメヤ音頭』、祝典行進曲風アレンジも面白い。
出典:神奈川県ホームページ
【神奈川県民歌】
続いて神奈川県の歌についても、簡単に触れさせていきたい。
神奈川県民歌『光あらたに』は、昭和25年5月10日に制定された。先駆けること昭和6年2月に『神奈川県々歌』という曲が制定されたのだが、これはあまりに普及しなかったということで、昭和23年の文化の日、神奈川県章制定のタイミングで県民から歌詞を公募し、完成に至ったという経緯がある。
しかしながら、『横浜市歌』と比べ(そもそも、『横浜市歌』の普及率の高さは全国レベルでも異様なほど高い)、その存在感は現在に至るまで薄い、という残念な状況が続いている。
なお、この曲の歌詞は、現在は3番までなのだが、実は「幻の4番」があった。しかしながら、「鎚の響」「黒けむり」といった歌詞が、戦後復興の象徴的風景ともいえる工場の騒音や煤煙など、言い換えれば「公害」を想起させるとして、昭和43年に時の県知事である津田文吾が「時勢にそぐわない」と削除を提案。刊行物での掲載が見送られることとなり、現在ではその存在が忘れられている。
(幻の4番)
晴れてこころの ときめくは
いまよみがえる 町にきく
鎚の響よ 黒けむり
ああ神奈川は 新生の
歴史の鐘の 鳴るところ
【君が代】
明治2年(1869)のこと、当時のイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長であったジョン・ウィリアム・フェントンが、「日本に国歌がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべき」との思いから、自身による作曲を申し出、当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(のちの大山巌)の提示により、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」のなかにある「君が代」を歌詞として作曲を行った。
フェントンの作曲した『君が代』は、彼自身の指揮により薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の演奏によって明治3年(1870)に山手公園にて初演されたのだが、その練習にあたり合宿地としたのが横浜の妙香寺である。
ここは「君が代発祥の地」であると同時に、「日本吹奏楽発祥の地」ともされている。
出典:出典:『ふしぎな君が代』幻冬舎新書
しかし、このフェントンによる『君が代』はあまり評判は芳しくなかった。明治13年(1880)、当時の宮内省伶人(雅楽を演奏する人)の長であった林廣守を中心とした改訂委員によって、新たな旋律と西洋的な和声(これは委員の一人であり、海軍軍楽教師であったフランツ・エッケルトの手による)を施され、現在の『君が代』が作曲され、同年11月には公に披露され、現在に至る。
ちなみに、どういった経緯でこうなったのかは今回追跡しきれなかったが、明治12年(1879)の「保育唱歌」には、「サザレイシ」という曲が載っている。
歌詞は「君が代」と同じなのに、メロディーは全く別物なのである。
そして、明治14年(1881)には、日本初の唱歌の教科書として発行された「小学唱歌集 初編」に、現在の『君が代』とは異なる「君が代」が掲載された。
この版の原曲は、18世紀のイギリスの作曲家であったサミュエル・ウェッブのものと伝えられており、小学校でも当初はこちらの版が教えられていたとのこと。
「君が代」に関してはいろいろ賛否があるが、その歴史を調べていくと、まだまだ謎があるようだ。
第52回いそご文化資源発掘隊 いま明らかにされる 「大正」と「温室」の謎
(2021年12月11日開催)
開 催 日:2021年12月11日(土)
開催時間:1回目 10時~11時40分
2回目 13時~14時40分
会 場:杉田劇場リハーサル室
参 加 者:1回目 21人 2回目24人
※新型コロナ感染拡大防止のため、定員の半分で開催。
お話:曽根武夫(栗木町)/多根雄一(杉劇)
今回のテーマは栗木町にあるNTTのケーブル名「大正」とバス停名「温室前」の由来について、地元の方々の協力によりその謎を解き明かそうというものであった。
NTTのケーブル名には不思議なものが多い。例えば、中区・神奈川区にある以下のケーブル名は、それぞれ地域の歴史を背負っていることが知られている。
稲荷町:居留地時代の町名(山手町)
山吹橋:吉田川に架かっていた橋(山吹町)
師範:横浜国大附属小の前(師範学校跡)
ラジオ:野毛山にあったラジオ関東のこと
牧場:山手駅裏にあった牧場。北海道のような牧場ではなく、牛舎があった。
では、磯子区にはどのようなケーブル名があるのか?
幼稚園:洋光台のど真ん中に幼稚園がある
貝塚:浜中学校前に貝塚があった。字名として使われていた
国鉄:磯子駅周辺にある。昭和39年に根岸線が磯子まで延伸したときのものか?
君津:中原の奥に君津鋼板の社宅があった
日赤:日本赤十字病院があった(根岸)。ちなみに近くの日石(日本石油)の間違いではない
向生:かつて杉田に向生病院があった
今回話題になる栗木町のエリアはおおよそ次の地図の範囲である。京急杉田駅とJR洋光台駅の中間。域内を大岡川(笹下川)が流れている。
「大正(支)」と書かれた電柱は、ハイタウンという比較的新しい閑静な住宅街の中に並んでいる。
そんな「大正」に、どんな歴史があるのか。それを探るため、栗木の町に詳しい曽根武夫さんを訪ねて、昔のことを色々お聞きした。
その中で、次のような写真を紹介された。
タイトルには「明治42年9月15日 上笹下神社創立記念」と書かれている。
明治時代、国策で神社の統合が進められ、上笹下では田中、栗木、矢部野、上中里、峰、氷取沢の6神社が現在の栗木神社の場所に集められ上笹下神社とされた。これはその時の記念写真である。
これを左右のブロックに分けて詳しく見てみよう。
まずは左側のブロックから。
黄色の丸で囲った洋服を着ている人。これが日下村の金子村長である。
その隣、赤丸の人物は日下村の伊澤庫次郎という収入役。村長、助役に次ぐ村役場のNO.3だ。
その隣の青色で囲んだ人は鈴木彦次郎氏。峰の大工総代である。
前列左端で座っている人は栗木の総代人・鈴木國蔵氏。
全員の氏名は分かっているが、重要な人物としてこの赤字で示した人たちが後の話にも登場する。
つづいて右側のブロック。
赤丸で囲った右端の人は宮内清次郎氏で、栗木の地主だ。
青色で囲った人は栗木の総代人である鈴木定吉氏。
赤丸で囲った左端の人物は伊澤庸次郎氏。
この集合写真の中で、洋服を着ているのは村長と伊澤庸次郎氏だけである。収入役の伊澤庫次郎氏でさえ和服なのに、立派な洋服を着ている伊澤庸次郎という方は、どういう人物だったのだろうか。
この写真に関しては、明治時代の神社統合の史料として説明を受けたのだが、この時はまさか「大正支線」にかかわる人たちが写っているとは思ってもいなかった。
写真を見せていただいた翌2019年1月27日、「磯子のお宝さがし」と題して第43回いそご文化資源発掘隊を開催したが、その時、曽根さんの案内で訪ねたのが栗木町2丁目4番あたりにある記念碑。ここに4人の名前を発見したのである。
大正支線の大正とは何か? その謎を解く鍵がこの碑だった。
曽根さんが保存している汐見台で発掘した土器、石器や原三溪の関係者から貰った火鉢などを見たあと、曽根さんの案内でまち歩きをしたときに、こんな記念碑を紹介された。
漢字だけで何かが書かれている。辞書をひきながら解読してみると、おおよそ、こんなことが読み取れた。
・・・栗木の土地は肥沃といえども、道路は峻嶮で歩行に苦しむ。河川は曲がりくねり、田圃は階段状で角が多く、域内の識者はこれを憂えていた。
そこで伊澤庫次郎、宮内清次郎、伊澤庸次郎、加藤源兵衛、黒川粂次郎、鈴木國蔵、黒川和一郎、黒川角次郎、黒川仙次郎が協力して、道路を修復し、河川の灌漑・排水を整備した。
その区域は字新川百壱番から・・・云々・・・
工費は千五百拾六円七拾五銭五厘。
本県補助金参百七拾六円也。
大正弐年拾月起工、四年五月竣工。旧字名を大正耕地と変更。
その結果、農産物の増収が得られたので、その功績を称えて、ここに記念碑を建立する。
大正四年拾壱月 川村鹿峰撰 林翁謹書
大正時代に耕地を整理した9人の名前が彫られているのだが、なんと、その中に明治42年の上笹下神社創立にもかかわっていた人物が4人もいたのである。
そして、NTTのケーブル名「大正支線」は、この字名である大正耕地にちなむものであることが、ほぼ決定的であることが分かった。
記念碑に書いてある総工費と補助金の額は、現代の金額に換算するといくらになるのか、試算してみた。
大正7年当時の1円を約2,589円とすると、総工費は約400万円、補助金が約100万円となる。
総工費の約25%の補助率だったことになる。
完成した大正耕地が、昭和6年の土地宝典に反映されていた。
左の人物は、明治42年の写真で宮司のうしろに立っていた鈴木定吉氏。この方は地域のいろいろな役職についていた。
上笹下神社氏子総代、戸主会長、栗木共有総代、全農会総代、金台寺檀徒総代などである。
その孫の鈴木治男さんが栗木に在住しており、定吉氏が残してきた各種資料を、現在も茶箱の中に入れて保管している。
久良岐郡日下村栗木耕地整理施行地区確定図。色褪せもせずきれいな状態である。
耕地整理施行手続と書かれた書類。マニュアルだ。そこには神奈川県から百分の二十五までの補助金が得られると書いてある。
補助金に関しては、耕地整理補助規則に書かれている。(神奈川県令第49号 明治43年6月)
「補助金は・・・堤塘溝梁、橋梁、溜池の変更廃置または灌漑排水に関する設備・・・に対しその費額の百分の二十五以内の範囲において之を交付す」
そのため、会員9名で日下村栗木耕地整理組合がつくられ、会長に伊澤庫次郎氏、副会長に宮内清次郎氏が選ばれた。
工事の請負人は荒井市五郎、下請は志村高明(あるいはその親)であった。しかし、工事完了後は減歩を巡って混乱。一時は会長、副会長が辞任する事態に陥ったが、のちに復帰し、無事補助金を受けとることができた。(横浜市で第1号)
※志村高明はのちほど別件で登場する。
さて、上笹下神社創立記念写真に写っていて、大正耕地記念碑にその名が刻まれている伊澤庸次郎氏(左写真)とは、どのような人物であったのか。
記念写真の中で洋服を着ているのは村長と伊澤庸次郎氏のみ。地元の資産家だろうか。コートにバッチが付いているところを見ると、県庁の役人のようでもある。
曽根さんの調査によると、伊澤氏は山梨の出身だったというから、もしかしたら生糸関連で生糸検査所の職員だったかもしれない。
耕地整理組合の会長が日下村役場の収入役(伊澤庫次郎)だったこと、横浜市で最初の補助金を得たこと、神奈川県庁との間で度重なる折衝を行ったことなどを考えると、伊澤庸次郎氏は県庁職員だった可能性が高い。
曽根さんのお話では、伊澤庸次郎氏は大正時代に県会議員になったという。
大正8年9月19日の横濱貿易新報に載った候補者。下段左から二人目が伊澤氏。久良岐郡は定数1名で伊澤氏の他に金子賢次郎氏が立候補していた。
大正4年5月に竣工した耕地だが、いろいろ紛糾して組合が解散したのは大正7年だった。県会議員の選挙はその翌年に行われたので、伊澤庸次郎氏は大正耕地の完成を背景に立候補してきたのだろうか。
大正8年9月27日(土)の「横浜貿易新報」に載った選挙結果。久良岐郡は伊澤庸次郎氏が396票、金子賢次郎氏が390票。その差はわずか6票だった。無効が8票あったのでかなり揉めたのではないだろうか。
『神奈川県会史』第4巻に議員の任期が載っている。それによると、
北見 忠蔵 大正4年~7年6月
福島柳治郎 大正7年7月~大正8年9月
伊澤庸次郎 大正8年9月~13年6月
北見保太郎 大正13年6月~14年7月
荒井福之助 大正14年8月~昭和元年12月
伊澤庸次郎氏以外の議員は1年から2年程度と短かったが、彼は4年9か月も議員を務め、その長さが際立っていた。
『県会史』には全員の顔写真が載っているのだが、なぜか伊澤庸次郎氏だけが空白なのである。神奈川県庁が発行した正式な歴史書に載っていないとは、どういうわけなのだろうか。
他の議員と違い5年近くも務めてきたのに、彼だけ写真がないはずがない。
不思議に思っているところに、曽根さんが伊澤庸次郎氏の墓石の写真を撮ってきてくれた。
それによると、大正13年4月10日に57歳で亡くなっているのだ。県議の任期満了は6月だったので、その直前に亡くなったことになる。そして年齢から逆算すると、伊澤庸次郎氏は慶応4年か明治元年生まれだったことが分かった。
ということは、例の記念写真を撮影したときは42歳くらいだったことになる。
ここからは想像になるが、伊澤庸次郎氏は神奈川県庁の幹部職員であると同時に、栗木の一住民として耕地整理組合の会員になって活動していたのだと考えられる。それは伊澤庫次郎氏(弟か従弟だった)が村の収入役であり、同時に組合の会長を担っていたことからも類推できるのではなかろうか。
まあ、それはともかく、「大正支線」というケーブル名は、この地域の字名にちなむものであったことは確かである。
さて、もう一つの謎であるバス停「温室前」。近くには温室など見あたらない。これは何なのか。答えは簡単に見つかった。
磯子区役所が平成5年に発行した『浜・海・道Ⅱ』にバス停名の由来が書かれているのだ。
同書によれば、磯子における花卉栽培は明治24年頃より、中原・杉田方面でのテッポウユリの栽培から始まったという。
一方、温室栽培は杉田の伊澤九三吉氏が開祖とされている。彼は、外国会社に勤務していた時に、外国人が花を愛好することを知り、明治42年に約15坪の温室を造り、ユリ、バラなどを栽培し始めたのである。
その盛況をみて中原、笹下、富岡付近の農家にも広がっていったという。
同書は花卉栽培のはじまりに続いて、「温室前」というバス停名にも言及している。
≪昭和十年頃から二十年頃にかけて、山梨県出身の志村高明氏が妻ハツさんと共に百坪と九十坪の2棟の温室でカーネーションや菊を栽培していた≫
当時、まだ健在だった妻のハツさんが、バス停名の由来を語っている。
≪バス路線を開設する際にバス会社の人が来て、この名前を付けたんですよ≫
昭和10年頃の写真も載っている。笹下釜利谷道路を挟んで2棟の温室が並んでいる。向こう側の小高い丘は、現在の三井団地付近だと曽根さんの解説があった。
温室内部の写真。左端が志村高明氏で、右端が妻のハツさん。たくさんのカーネーションが咲いているのが分かる。
冬は温度管理のため夕方5時から朝の5時まで、二人交代で石炭のボイラーを炊いていたそうだ。
温室でつくった花は、当時「岩亀」と呼ばれた戸部市場(横浜生花卸売市場)に出荷していたという。
曽根さんのお話では、昭和15,6年頃になると、花なんか栽培していないで米を作るよう求められ、温室栽培は終わってしまったという。
こうして志村高明氏の花卉栽培は終焉したのだが、戦後、思わぬところからその名前が登場する。なんと横浜市会議員の選挙に立候補しているのだった!
昭和22年4月11日の神奈川新聞。県会議員、市会議員選挙の告示があったことを伝えている。これが戦後最初の地方選挙である。投票日は4月30日(水)。
県議に佐藤安蔵氏、小沢二郎氏ほかが立候補。
市会議員の立候補者が並んでいる。当時の磯子区は現在の金沢区エリアを含んでいたので、かなり大きな区域を持っていた。だから定数は8名。
その中に志村高明氏の名前があった(黄色い囲み)。経歴を見ると、栗木町222番地在住の土建会社社長で49歳。この時に49歳というから明治31年(1898)年頃の生まれらしい。
県会議員に立候補していた佐藤さん、小沢さんが市会議員にも立候補している!(下段の青色囲み)
横浜市選管の話・・・法律が整備されていなかったため、こういうことがOKだった。
戦後初の地方選挙ということで、他にも現在では考えられないようなことがあった。4月10日の告示を過ぎても、五月雨的に次々と立候補者が現れているのだ。で、最終的には30名が立候補している。
余談だが、左上の青色の囲みにある平尾城市さん(新山下 洗濯業)は、伝説のバンド、ゴールデンカップスのデイブ平尾の父親である。
鳥山数衛さんは関内の有名な鳥山整形外科医院長。
記事によれば、有権者数は約56,000人、予想有効票が7割として約44,000票。
定数8人のところに立候補者が30人の乱立。組織、血縁、地縁、同業が保守、革新、中立入り乱れて大変な状況になっている。
主な顔ぶれとしては佐藤安蔵(自)、小沢二郎(民)、鹿島源左衛門(自)、飛鳥田喜一(民)。この辺が安泰で、米窪明一(社)、玉浦芳次郎(社)、早川律(無)、飯塚総一(共)、三村健彰(社)、横山文治(社)は勤労大衆や青年層の支持狙いだという。
蔵原年光(無)は戦災者引揚者層に地歩を固め、杉田では町内会長17年の渡辺正夫(民)が連合町内会を背景にその票6,000を狙う。その中に志村高明(無)が食い込む。
志村保直(無)、石橋寅四郎(無)はそれぞれ石川島、日飛の戦時中の従業員。
なかなか厳しい状況だったようである。その結果は……
選挙結果を伝える5月2日の記事。(神奈川新聞)
新聞社の予想どおり禅馬の佐藤安蔵(自)、六浦の小沢二郎(民)、富岡の鹿島源左衛門(自)、広地の飛鳥田喜一(民)は当選。
残りの4人は勤労大衆や青年層に支持された西根岸の横山文治(社)、米窪明一(社)、三村健彰(社)、そして釜利谷在住の会社重役・森福太郎(無)であった。
残念ながら志村高明氏の名前は無い(涙)。
今回、昭和22年の地方選挙を調べている中で、とんでもないことが分かった。
県議の立候補者に名を連ねている佐藤安蔵氏(自)と小沢二郎氏(民)に注目。
この二人は、なんと市議選にも立候補していたのだ。同姓同名ではない。年齢も住所も同じ。今でいうところの重複立候補!
横浜市の選管に問い合わせたところ、当時は法律が整備されていなかったため、こんなことが許されたという。
そしてその結果、二人とも県会と市会で当選! しかも県会議員をやりながら市会議員もやっていたというではないか! すごい時代だったのだ。
さて、戦後初めての市会議員選挙に立候補し、残念ながら大差で敗れた志村高明氏であるが、その4年後の昭和26年4月23日の選挙にも立候補している。この時は金沢区を分区したあとなので定数は4人。そこに8人が出馬。志村高明氏に関しては次のような評価が出ている。
≪屛風浦地区から市会議員を、という声があり、婦人連を一本化した志村高明だが、そこに関寅吉氏が飛び入り、二つに割れて形勢不明。≫
そして気になる結果は……
またもや落選…(涙)
結局、この選挙を最後に志村高明氏は政界入りをあきらめ、事業に専念することになったようである。
彼は戦時中に温室を使った花卉栽培をやめて、戦後は土建業で財を成したと言われている。それを証しするかのような史料が磯子区民文化センター杉田劇場に残っている。旧杉田劇場の舞台幕を写した写真だ。
昭和21年1月に戦後いち早くオープンした旧杉田劇場。大高ヨシヲ一座の時代劇や市川門三郎の歌舞伎などで全市から観客を集め、京浜急行はそのおかげで大儲けをしていたという。
しかし羽振りが良かったのは昭和22年頃までで、横浜都心部に劇場が復活し、また新しい映画館があちこちにできてくると、旧杉田劇場の人気は陰り始める。
昭和23年、地元有志の好意による株式購入で、一時的には資金難から立ち直り、同じころ旧杉田劇場を応援する町の人々から新しい舞台幕も寄贈された。
その幕には支援した人たちやお店の名前が書かれている。ど真ん中で、しかも両サイドとは間隔をとって君臨しているのが志村高明氏だ。
彼は舞台幕新調のため多額の資金を提供したのだろう。もしかしたら大高ヨシヲや市川門三郎の大ファンだったのかもしれない。
ちなみに、右に並んでいる「日晴楼」は桜木町駅前にあった中華料理店で、経営者の吉澤はつさん(磯子区森町)は旧杉田劇場の常連客だった。その関係で舞台幕に名を連ねているのであろう。
その隣、代々木屋呉服店、野村電気商会は杉田商店街の老舗だった。
左側に並ぶ杉田公設市場は、京急杉田駅の斜め前にあった。ここには美空ひばりの父親・加藤増吉氏が経営する「魚増」の支店があった。これがオープンした日には、美空ひばりが手伝いにやって来るというので、駅前の道路は群衆でギッシリと埋まり、歩くこともできなくなるほどだったという。
牛豚肉の「石川」は現在も杉田駅第1踏切際で営業中。
「満るや深野金物店」は現在の「深野力蔵商店」だ。
このように多くの人々によって支えられていた旧杉田劇場であるが、結局は昭和25年10月3日に株式会社としては解散してしまった。
しかし、その後も営業は続き、昭和27年まで貸館として存続していたことが、新聞広告や写真から分かっている。葡萄座の公演や浜中学校の学芸会などで利用されていた。
その後の伊澤庸次郎氏と志村高明氏
伊澤庸次郎氏:大正13年に57歳の若さで亡くなってしまったが、彼が手掛けた栗木町の「大正耕地」については、路地裏にその功績を称える記念碑が残された。
さらに近くの住宅街には、その名が付けられたNTTのケーブルが張り巡らされている。
志村高明氏:亡くなった年は不明だが、土建業の他に伊豆北川で旅館も経営していたという。そこをやめたあとは、親族が栗木町に「びいどろ亭」という懐石料理のお店を出した。しかし、それも10年ほど前に廃業し、現在、そこには大きなマンションが建っている。
いま、志村高明氏の温室に関わる史跡はなにもないなかで、唯一残されているのがバス停「温室前」である。
昭和30年代の栗木町。かつて温室があった付近。
『浜・海・道Ⅱ』(磯子区役所)より
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