第53回いそご文化資源発掘隊 根岸湾物語
(2022年2月22日開催)
第1部 根岸湾の地形と歴史
《最終氷期と縄文海進》
地層や地形は、大きな地殻変動の影響を受ける。その他にも、太陽の活動が活発か停滞しているかによって、地球の気候も変化し、地層や地形に大きな影響を与える。
磯子区の複雑な地形は、大きな地殻変動の結果というよりも、2万年前の最終氷期と6,000年前の縄文海進によって形成されたと考えられる。
世界の平均気温がだいたい7度、8度くらい下がると氷河期になる。そうすると水は雪や氷となって内陸部にとどまるため、海水が無くなり海底だったところが露出する。
逆に2度くらい高いと、海水が増えて川をさかのぼり内陸まで入り込む。
2万年くらい前には最終氷期となっていて、東京湾はなかった。というか、北海道から本州、四国、九州まで全部、地続きとなっていた。東京湾が陸だった時代があるということだ。
太陽は地球の約109倍の大きさで、私たちが住む地球にもその影響がある。その活動が活発な時には、地球の平均気温が上昇し、活動が停滞する時には、地球の平均気温が下降すると考えられている。
地球が温暖化になっていくと、雨が降って海水面が上昇するが、寒冷になっていくと、雨ではなく雪になり水は山に残って海には来なくなる。
2万年くらい前は、太陽活動の停滞から地球の平均気温は今より約7度低かったと考えられており、地球は最終氷期と呼ばれる氷河期となり、浅瀬は陸地となっていった。
では、関東沿岸部はどのようになっていたのか。2万年前の東京湾地形へ遡ってみよう。
海の水が減り、図①のように東京湾は全部陸地になっていった。現在、東京湾内に注いでいる河川も、内湾が陸地だったので、川のまま流れていくことになり、合流して1本の河となり本牧沖から深い渓谷を作っていったと考えられている。
この2万年前にできた川のことを古東京川といい、古東京川の河口付近を浦賀水道と呼んでいる。
今も大型のタンカーや貨物船などは、この2万年前にできた川の上を航行している。
東京内湾に流れ込む現在の河川も、内湾の潮流も、2万年前の海底の渓谷(古東京川)の影響を受けて流れていると考えられている。
この古東京川は千葉県寄りではなく、神奈川県側に存在している。ペリー艦隊もこの川の上を航行してやってきた。
逆に今度は太陽活動が活発になると、川の水が海にどんどん供給されていく。縄文時代には堤防なんかないので、海の水が谷あいに入り込み、現在の平地にどんどん侵入されていった。これを縄文海進という。
鶴見川の周辺は細長い形で海ができ上り、考古学上「古鶴見湾」といわれるようになった。帷子川も同じで、だいたい西横浜あたりまで海だったようだ。柏尾川、阿久和川も海になり、現在の泉区や瀬谷区あたりまで広がっていた。
地球が暖かくなったり寒くなったりすることによって、海が内陸まで入り込んだり引き下がったりする。そして削られた丘が急な崖を形成する。それが本牧や磯子から金沢に続く崖である。
その際に丘を削られた砂は流れの緩やかなところに溜まっていく。根岸湾はそれが溜まりやすかったので遠浅の海ができた。
最終氷期と縄文海進とがあって、この辺の切り立った崖地と遠浅の海ができ上った。
この遠浅の海が形成されたことによって、砂地には貝類やカレイのような魚がやって来る。岩礁には陽が届きやすいので海藻が茂り小魚がやって来る。その小魚を狙って大型の魚も寄ってくる。こうして豊かな漁場ができ上った。
《どこまで海だったのか》
図②は昭和24年に米軍が撮影した航空写真。根岸湾沿いに黒い四角のものが並んでいるが、これは海苔の養殖。先ほどお話したように浅瀬が続いていたため、東京湾内には海苔の養殖が広がっていた。一大産地だった。
漁師の仕事は当たり外れが多かった。たくさん獲れるときもあれば、まったく獲れないときもある。海苔の養殖もいい悪いがあるけど、ある程度人工的に操作できるので、魚よりは収入が安定していた。
それから海苔というのは、現在ではコンビニでも売っているくらいだが、昭和40年頃までは高価な物だった。
昭和20年代前半の公務員の初任給は約3,000円だったが、海苔は1帖(10枚)で45円だった。さらに本牧から根岸にかけては良質の海苔が獲れた。
どういうことかというと、内陸からの川が森の養分を含んで、先ほどお話した古東京川に沿って根岸湾に流れていく。そこで良質の海苔がつくられていった。
昔の海岸線は現在、本牧から富岡まで高速道路が通っている所と同じと考えていい。なぜかというと、内陸部だと用地買収をしなければならない。海でも海岸から離れると深くなる。なので、海岸線に沿って浅いところに造られる。
一方、海底の地形はどうだったのか。現在の埋立地を見ると、適当に埋め立てているわけではないことが分かる。埋め立てるには、どこを埋め立てたら楽なのか。深い所より浅いところ。そして岩盤が強いところ。浅くて岩盤のいいところだ。
昭和34年頃から埋め立てが始まるわけだが、海苔を作っているところはだいたい水深が2mくらい。海苔下駄というのを履いてザクザクと歩いて行けるくらいの深さ。そんな浅いところで岩盤に竿を立てて、網を張って海苔の養殖をしていた。
だいたい10月11月の寒い時期になると、それまで隠れていた海苔の胞子がフワっと出てきて網につく。しかし自然だけに任せていても難しいので、人工的に胞子を蒔いて付着させていくのが一般的で、こういうのが海苔の養殖だった。
海苔の出来のいい所、悪い所は、どうしても偏ってくる。古東京川に沿って森の養分が流れてくるので、それを先取りできるところが良い養殖場。漁師はその場所を知っていたので、争いが起きる。ということで毎年、くじ引きで場所を決めていた。
そして根岸湾の海苔は良質で高値で売れるため、流れていった海苔も拾い集めていた。埋め立て前、漁師の子どもたちはオニギリに海苔を巻いていた。普通の家では高価な海苔は簡単に巻くことができなかった。
現在、海苔の養殖をしているのは野島の4軒だけ。これは全国に出荷するというものではなく、観光用。
《海底の地形と埋め立て》
この図を見てほしい。青い線が海底の等高線。本牧を見るとよく分かる。青い線に沿って埋立地が造られている。その先にできている南本牧も、すべてではないが青い線の内側にできている。
もともと水深の深くないところを埋め立てたことが分かる。
1,7,6,3,4には「根」という岩礁帯があった。現在の埋立地は昔の漁場の上にできていることが分かる。9,10はそれぞれカド根、カキ根と言われていた岩礁で、カキ根というのはカキがよく獲れたのだろう。ここは今、鳥浜のアウトレットになっている。青い線の外側にはヨットハーバーがある。こちらは深い所だ。
IHIのところは青い線の先まで埋め立てられているが、ここは船が接岸するから深い部分が必要で、このような埋立地が造られている。
以上のことから、根岸湾の埋立地を見ると、そこが漁場だったということが分かる。
ここからは次回の宣伝も兼ねて、お話を続ける。堀割川の河口に飛行場があった。これは大日本航空の飛行場で、富岡の方にも海軍の飛行場があった。どちらも飛行艇のための飛行場だ。根岸湾を滑走路として飛んでいた飛行艇は、「紅の豚」に出てくるようなあんな小さいものではなく、両翼の長さが40mもある大きなものだった。
なぜここに飛行艇の飛行場が2つもあったのかというと、根岸湾は波が静かで穏やかだったことによる。富岡の方は海軍が使用。根岸の方はのちに海軍に徴用されるが、最初は民間会社だった。それがどこまで飛んで行っていたのかというと、サイパン・パラオ方面へ行っていた。料金は当時の銀行員の給料3か月分くらいだったという。
そもそも、第一次世界大戦のあと、南洋の島々は国際連盟によって日本が委任統治を託されていた。これは植民地ではなく、日本が支援するという委任統治領だ。
南洋には小さな島がたくさんあった。そんなところに陸上の滑走路を造るわけにはいかない。そこで海を滑走路にすることが最適だったのだ。
飛び立つところはどこかというと、先ほど話した古東京川の辺りは船舶の航行が多いので、そこより内側、すなわち船が少なく穏やかな根岸湾が選ばれた。
ちなみに図③にある間門飛行場というのは戦後、米軍が造ったもので、これは内陸部の中区若葉町にあったのを移転させてきた飛行場。こちらはセスナ機が飛んでいた。
現在、根岸飛行場跡はENEOSの石油タンク群に、富岡飛行場跡は神奈川県警察第一機動隊などに、そして間門飛行場跡は中区根岸町・磯子区東町のマンション群などになっている。
↑ブロムリー中尉とゲッティの来日を伝える新聞記事(昭和5年8月9日)
↑市電埋立地で組み立てられたタコマ号
写真にはブロムリーとゲッティのサインが書かれている
↑市電埋立地のタコマ号
(上)地元の有力者と一緒に撮影
(下)出発前のタコマ号
↑霞ケ浦海軍航空隊に到着したブロムリーとゲッティ
↑ガソリンを放出して緊急着陸するタコマ号
↑淋代海岸のタコマ号 村人が見学に集まっている
↑尻労海岸に不時着したタコマ号
↑タコマ号を改造したパシフィック号
左:トーマス・アッシュ
右:淋代海岸のパシフィック号
↑タコマ号を改造したクラシナマッジ号(立川)
↑淋代海岸のクラシナマッジ号(淋代海岸)
↑世界早回りを断念し、太平洋無着陸横断飛行挑戦に切り替えたミス・ビードル号のパングボーンとハーンドンの二人
↑クラシナマッジ号の出発を伝える新聞記事(昭和6年9月9日の記事)
↑連絡がつかず不時着か?遭難か?
いろいろな見出しが飛び交った
↑クラシナマッジ号は無人島に不時着していた
↑昭和6年9月18日、満州事変が勃発
↑出発を待つミス・ビードル号(淋代海岸)
↑ミス・ビードル号が太平洋無着陸横断飛行に成功
↑胴体着陸したミス・ビードル号
第2部 太平洋無着陸横断に挑んだ男
《ブロムリー中尉とゲッティ》
昭和2年、リンドバーグが大西洋単独横断飛行に成功。すると、次は太平洋横断という機運が盛り上がる。
何組かのアメリカ人がアメリカから日本に向けて離陸しては失敗を続けていた。
そのうちの一組、ブロムリー中尉とゲッティが昭和5年8月8日朝、プレジデント・リンカーン号で横浜港にやって来た。日本から偏西風に乗ってアメリカを目指すという計画だ。愛機の名前はタコマ市号。(略してタコマ号)。シアトル近くのタコマ市の支援を受けて横浜にやって来たのだった。
太平洋無着陸横断飛行の出発地点は霞ケ浦にするという。そのため、横浜に陸揚げしたタコマ号を市内のどこかから霞ケ浦まで飛ばさなければならない。
8月11日、ブロムリーらはダラー汽船支配人のトムソン氏と一緒に神奈川県庁を訪問した。目的は、横浜上陸時にパスポートを忘れて来たにもかかわらず、県担当者の好意により無事上陸できたことに対するお礼だった。
同じ日、ブロムリーらは逓信省航空局に飛行許可願いを出したところ、直ちに許可された。霞ケ浦から飛び立つことが正式に決定し、そこまで愛機を空中輸送するための適地を提供してくれるよう横浜市に依頼したところ、滝頭の市電埋立地を利用することが決定。
有吉市長のあっせんで、この場所が選ばれたのである。そのため横浜市も野球場の設備を取り壊して協力。その結果、13日夜、ばらして税関に保管していた翼は艀(はしけ)で、その他はトラックで市電埋立地に運び込んだ。
ここは横浜市電気局(交通局の前身)が工場や倉庫として利用するために埋め立てた所。堀割川河口の右岸に昭和4年に完成している。
ちなみに、八幡橋から先に細長く突き出した波止場は、明治3年から6年にかけて堀割川を開削した時に発生した土で作られている。
ブロムリーは14日、逓信省の田中航空官と一緒に市電埋立地へやって来て、機体の組み立てを開始した。
15日には大使館を経て、磯子・霞ケ浦間の飛行許可願いを出すことになった。
タコマ号の前面。禅馬に住んでいた市会議員の息子さんから区役所がいただいた写真。白い服を着ているのは警察署長か軍人か。写真には二人のサインが入っている。
8月16日。タコマ号はいよいよ17日に飛び立つという記事が出た。それによると、電気局では市民のために電車内に出発時刻を貼り出し、滝頭付近の停留所には道案内を出すなど、いろいろ便宜を図っている。
そして17日(日)午前7時半、ブロムリーらが埋立地に現れた。午前9時になると1万人の市民が埋立地に集まってきた。
午前9時30分、山縣知事と令嬢の光子さんが現れる。薄桃色の洋装姿の光子さんによる花束贈呈式が行われたあと、山縣知事からあいさつがあった。
午前10時、エンジン始動。しかし、飛び出さないうちに東風が強くなり、正午になって一旦中止することに。やがて午後1時、観衆は3分の1に減少していた。結局この日は南風が吹かないため翌18日に延期となった。
今日は飛ぶ、明日は飛ぶと言いながら、なかなか出発しないので、横浜市民もだんだん苛ついてきたようだ。とくに青年団は毎夜毎夜、警備のため現地に張り付いてきているので、さすがに嫌気がさしてきたという。
なかなか飛べない理由としてブロムリーは次のことをあげていた。
①飛び立つためには1,500mの距離がほしいのに、ここは1,300mしかない。
②必要な南風がなかなか吹かない。
しかし、この距離に関しては疑問がある。旧市電埋立地をグーグルストリートビューで計測すると、その距離は約400mなのである。これはもしかしたら、フィートの間違いなのではないか。1フィート=約0.3mなので、それで計算すると約390mとなる。当時の新聞記者がフィートとメートルを勘違いしていたのではないだろうか。
それはともかく、なかなか飛ばないなかで、大喜びしていたのが横浜水族館であった。この施設は昭和3年8月、横浜市水産会の経営のもとに開設された。場所は旧磯子区役所の裏だった。館内タンクには塩水及び淡水を湛え、数百の魚を養い鑑賞に供する実物教育の施設だった(土地法典より)。
普段の来館者は120人がいいところなのに、タコマ号のおかげで連日、1,500人もの入場者があったという。もちろん市電も儲かったはずである。
そんな中、やっと飛び立つ日がやって来た。8月19日11時、ブロムリーとゲッティの2人が市電埋立地にやって来た。いろいろと準備をしたあと、11時50分には磯子警察署長や在郷軍人会幹部にあいさつ。水色のワイシャツ姿のまま機上の人となり12時に飛び上がっていった。
霞ケ浦航空隊では小林指令、山口副長、逓信省の森航空官らが待ち構えていた。0時36分、着陸し格納庫に収まった。
翌20日、二人は航空隊にやって来て機体の整備をしたあと、22日の午前4時から5時の間に燃料を満タンにして試験飛行をすることになった。
22日、霞ケ浦航空隊ではタコマ号の日本領地内の飛行経路について、逓信省航空局と軍部とで協議して、だいたい次のようなコースを決定した。
霞ケ浦から水戸に出て、海岸線を岩手県宮古に直行、それより東経141度40分を北海道落石に出て、千島の東をアリューシャン列島に向かう。
しかし、23日に試験飛行をするはずだったが飛べず、25日に延期となった。
そして25日にはやっと飛び上がり40分間の試験飛行に成功した。
その後、二人は中央気象台と相談。27日までは千島列島上空に北東の強風雨があり28日に回復の見込みとの情報を得たので、28日午前4時に出発と決定した。
27日、ゲッティ機関士は西村通訳と一緒に中央気象台を訪問。カムチャッカ以東の気象について検討したが、あまり思わしくないので28日の出発を見合わせて29日に飛び立つことを決定した。
しかし、29日も気象は思わしくなく、結局30日の出発ということで、またまた延期となった。
そしていよいよ当日、午前5時22分、燃料を満載して霞ケ浦航空隊の飛行場でエンジンを始動。しかし、3分の2ほど滑走しても重たいためなかなか飛び上がれず、ギリギリのところでやっと浮上したがこのままでは危険ということで、ガソリンを緊急放出して難を逃れた。
タコマ号の主な後援者であるジョン・バッフェレンが記者に語っている。無着陸ではなく、途中アラスカあたりで1回着陸してもいい。とにかく無事にタコマ市まで帰ってきてほしいと。
これは9月4日の新聞記事である。横浜港に到着してから約1か月が経とうとしていたが、いまだ飛び立てないでいる。
霞ケ浦からの出発に失敗した二人は、もっと好適な場所を求めることにした。
ゲッティは3日午後3時7分、青森県小間木駅に到着し、上北郡三沢村木下平ほか2か所を調査し、同日帰京した。タコマ号は霞ケ浦航空隊に置いたままである。
その結果、二人は青森県三沢村の淋代海岸を出発地とすることに決定。6日午後3時、霞ケ浦・淋代間の飛行許可が出たので、彼らは土浦町の松庄旅館に宿泊することになった。
青森県庁ではローラーを三沢村に送り込み、8日夜から地固めの作業に入った。二人は翌日、淋代海岸に到着し、離陸準備に専念することになった。
昭和5年9月14日午前5時10分、とうとう太平洋無着陸横断飛行に挑むタコマ号が飛び立った。新聞にはこんな小見出しが並んだ。
空の王座を目指しタコマ市号飛ぶ
壮図の成否は一に気象
タコマ市をあげ俄かに緊張
各地の無線局からは、「エトロフ島東岸通過」、「ウルップ島北東を通過」「プレジデント・タフト号がラジオ受信」といった情報が入ってくる一方、「アリューシャン濃霧濛々」なんていう気がかりな情報も同時に入電している。
残念ながらカムチャッカ東南100マイルの辺りで悪気流のためパイプが破損。ガスが漏れだし操縦士にかかり、これ以上向かい風に抗して飛行を続けることが不可能になり、やむなく引き返すことに。
不時着場所は下北半島の先端付近の尻労(しつかり)海岸。
17日、航空局の離陸許可を得たブロムリーとゲッティは、午後5時59分に尻労海岸を飛び立ち、6時18分、離陸地点である淋代海岸に着陸した。
その後、両氏は淋代海岸に愛機を残し、列車で午後3時上野駅に到着。そのまま横浜に向かい、ダラー汽船の支配人トムソン氏宅に身を寄せることになった。
今後はもう一度飛ぶかどうかは白紙だという。
二度の失敗のあと、三度目の挑戦をしようと意気込んでいるブロムリーは、機体の整備をするため一旦、立川飛行場へ空輸することにした。
27日に飛行の許可が出たので28日もしくは29日に立川まで運び込む予定だという。
30日にはブロムリーとゲッティの後援者であるジョン・ブフェリン(9月1日の記事では後援者の名前をバッフェレンとしていた。もしかしたらバッファリンが正確なのかもしれない)が、今後の予定として天候が許せば、10月中の再挑戦も可能であるとの見解を示した。
しかし、10月になればアリューシャン列島方面の天候は9月よりも荒れてくるはず。しかも、ゲッティ機関士はガス中毒の後遺症で療養を余儀なくされていた。
そんな状況の中、ブロムリーは11月21日、翌年の再挑戦を伝えて帰国していった。
《アッシュ中尉》
ブロムリーが帰国して半年後の昭和6年4月、今度はアッシュ中尉がアメリカからやって来た。目的はもちろん太平洋無着陸横断飛行である。
4月11日にタコマ号の使用権を得た彼は、朝日新聞社に懸賞金挑戦の申し込みをした。この年、太平洋無着陸横断飛行一番乗りを達成した者に懸賞金を出すことになっていたのである。
立川飛行場に保管されていたタコマ号をアッシュが改造整備していた5月20日、彼の姪を名乗るルース・バロン嬢(24)が、エンブレス・オブ・エシア号で横浜港に到着した。
この女性は3年前から航空界に身を投じ、郵便飛行や旅客飛行に携わっていたという《天女》で、昭和5年秋にロングビーチで行われた婦人の航空コンテストで第3位に入賞している。
そんな女性が叔父のアッシュを助けて、一緒に一番乗りを目指すと言っているが、当のアッシュは帝国ホテルで記者の質問に答えてこんなことを言っている。
『私の姪にルース・バロンなんていませんが、バロン嬢は単なる知り合いにすぎません。日本に来た理由も知らないし、横断飛行に同乗させる気はありません』
ルース・バロン嬢を同乗させないと言っていたアッシュだが、5月26日の記事を見ると助手として採用している。しかし、同乗したのかどうかは不明だ。
アッシュは5月29日、タコマ号を改造してパシフィック号と名前を変えた機体を立川から淋代海岸へ移動した。翌30日に出発することを決めていたが、天候不順により飛べず。
タコマ号の時と同じように、三沢村の人々が大勢見学に集まって来た。外国人や飛行機を見るのは初めてだったのだろう。
左の写真は出発前のパシフィック号。傾斜地に滑走台ができている。これは三本木町の田島工場が製作したもので、幅が約11m、長さは約181m。板を並べて敷き詰めたという。
昭和6年5月31日、群集の見守るなか、いよいよ滑走を開始した。
だが、タコマ号が飛び上がった2,000メートル地点を過ぎても浮上できず、最後は砂地に車輪を埋めて止まってしまった。
「この飛行機は、タコマ号を修理しただけだから、性能は依然として同じである。これで飛行しようとしたことは無謀というしかない」との批判もあって、アッシュは計画を断念。6月3日、パシフィック号は再び立川飛行場へ戻されてしまった。
《アレンとモイル そしてパングボーンとハーンドン組》
パシフィック号は飛び上がることさえできずに失敗し、操縦士のアッシュ中尉が帰国したあと、8月になると今度はアレンとモイルという二人のアメリカ人がやって来た。立川飛行場に保管されているパシフィック号(元タコマ号)をさらに改造し、クラシナマッジ号として横断飛行に挑戦する計画だった。
今回も三沢村の人々が物珍し気に集まって来た。左端に写っている籠を背負った男性は農作業の途中だったのだろうか。
機体には以前と同じく日章旗と星条旗が描かれている。
ちょうどその頃、世界一周早回り飛行に挑戦している飛行家が何組もいた。その中にパングボーンとハーンドンという二人組がミス・ビードル号で参加していて、8月4日、雨の中をハバロフスクに着陸した。しかし雨は一向に止む気配もなく、泥沼と化した草原で立ち往生してしまう。こうなってくると一番乗りはあきらめざるを得ない。
そんな状況を見て、ニューヨークの新聞では「早回りをやめて太平洋無着陸横断一番乗りに切り替えるのではないか」というニュースを流していた。
そして5日、モスクワ経由のハバロフスクからの情報として、同号は早回りを断念し、無着陸横断飛行に挑戦するため日本へ向かうことが判明した。
現地を飛び立つのは6日だという。こうなるとクラシナマッジ号とミス・ビードル号の先陣争い勃発だ。
これに対して逓信省航空局では、「日本に飛来するとしても、日本領土上空の飛行許可願いが出ていないので、6日は無理だ」との見解を示した。
しかし、彼らは逓信省の意に反して、8月6日朝6時56分、突然ハバロフスクを出発し、午後5時50分、羽田に到着した。
羽田飛行場は8月25日に東京飛行場として正式開港するので、この時はまだ利用できない状態だった。そのためミス・ビードル号は直ちに飛び立ち、午後6時16分に立川飛行場に到着した。
逓信省によると、飛行許可願いが出たのが直前で、しかも不備があったため、アメリカ大使館を通じて調査中だったが、いきなり来てしまったという。
そのため警視庁はこの二人を監視すると同時に、逓信省航空局では無許可飛行として処置をすることになった。
無断で日本に飛来したということで大問題になり、逓信省、陸軍省、海軍省、外務省、警視庁の役人が集まって協議。彼らは無許可で飛行しただけではなく、上空から日本領土の写真撮影もしていた。
そのため航空法違反、要塞地帯法違反に問われることになった。
取り調べは毎日行われ、12日には午前9時から東京地方検事局に召喚され、午後7時40分まで事情聴取が行われた。翌日もほぼ同様だったらしい。
さて、ミス・ビードル号が横断飛行出発に手間取っているとき、クラシナマッジ号はどうなっていたのか。
アレン、モイルの太平洋横断飛行は厳重な条件で許可されたのである。その条件とは、
①既に2回も失敗に終っているので、今回失敗すれば今後同機による横断飛行は許可しない
②立川から水戸に出て海岸線に添って宮古に直航し、東経141度40分で海面より鮑島5マイル沖を通過する
③淋代より東経141度40分以東の海上に出て、襟裳岬に至り落石を経て色丹島の北方海上より千島上空を絶対に避け、東側によりアリューシャン群島に出る
④帝国領土航空中は爆薬・兵器・写真機の携行を禁ず
アレンとモイルは、タコマ市の後援者から貰った数万ドルを機体改造などで使い果たし、最後は身に着けている物をすべて日本人にプレゼントして身軽になって、9月8日午前5時28分、とうとう離陸。
千島列島沿いのコースを取らず、襟裳岬から右に出て一挙にアリューシャン列島方面に向かった模様である。
午後9時5分、アリューシャン列島付近にいる日本郵船の日枝丸その他の船舶から「機影が見えず」という無電が入る。
その後は連日、機影が見えないとか無電がないといった記事が掲載されることに。
太平洋最初の犠牲か?
米国沿岸警備隊捜索を開始
無人島に不時着しているか
妻は祈り 母はあきらめず
それから10日後の新聞にこんな記事が出た。
9月16日朝、アレン、モイルが無人島に不時着し、無事発見されたというのだ。記事によると進路を誤り、ガソリンを使い果たした結果という。ただし、これは正確な情報ではないことがのちに判明する。
その後の記事によると、ベーリング海の無人島に不時着し、ソ連の汽船に救助されたという。
しかし、これも正確な情報ではなかった。
不時着した無人島の位置は正しいようだ。
このあと9月19日の大阪朝日新聞の記事で事の真相が分かってきた。
二人からの電信が懸賞金を出している朝日新聞社に届いた。それによると、アリューシャン列島上空で大暴風に遭遇。34時間彷徨し無人島に不時着し7日間過ごしていたという。
積み込んだ食料は初めから少なかった。そこでモイルの作ったパチンコで海鳥を獲ったり、浜辺の貝を拾ったりして空腹をしのいできた。
8日目に天候が回復し再び飛行を開始した。(ガソリンは放出していなかったようだ)
しかし、すぐにカムチャッカ半島北部のマイナ・ビルギンに再び不時着した。
18日には再出発し、しかるべき場所を経由してシアトルに向かう予定とのこと。
その9月18日。満州事変が勃発した。
アレンとモイルの乗ったクラシナマッジ号は現在、カムチャッカ半島の北部にいる。
一方、後発のミス・ビードル号のパングボーンとハーンドンは要塞地帯法違反などで、まだ日本に留め置かれていたが、19日、逓信省から二人は飛行許可を与えられ23日に立川から淋代海岸へ移動することになった。
そして26日にはアメリカへ向けて飛び立つ予定。
淋代海岸に到着してからもずいぶんと時間が経過していく。この間に何があったのかは分からない。
クラシナマッジ号の方も、9月18日にシアトルに向かうという情報が出たきり、その後の状況は一切報告がない。
そんななかの10月4日午前7時、とうとうミス・ビードル号が太平洋無着陸横断飛行に向けて淋代海岸を離陸した。
積み込んだ食料は、万一の不時着に備えて12日分の食料を用意した。蒸し鶏、サンドイッチ、リンゴ(紅玉)。これらは三沢村民の好意だった。
出発風景と共に二人の経歴が紹介されている。
パングボーンは34歳。第1次世界大戦ではアメリカ航空隊の一員として活躍した。ハーンドンは26歳。ニューヨークの百万長者(現代なら億万長者)の息子。20歳の頃パングボーンの空中サーカス団に入り、各地を巡業していた。そして10万ドルを拠出して「世界一周航空会社」を設立。しかし、これは先に話したように失敗に終わっている。
翌日は、新聞紙面にこんな見出しが踊った。やはり問題は天候だ。しかし、今回は幸運にもアリューシャン列島は快晴だという。このままいけば無着陸横断は成功するだろうと。
10月6日午前0時14分 遂に成功!
この時間は日本時間である。(新聞記事には現地時間も併記しているが、記者が時差を間違えて表記している)
現地時間だと10月6日午後5時14分だ。ついにワシントン州ウェナッチに着陸したのである。
二人には朝日新聞社からの賞金、25、000ドルが交付された。
写真はウェナッチに胴体着陸したミス・ビードル号。新聞記事には華麗に着陸したと書いてあるが、離陸と同時に機体を軽くするため車輪を切り離しているので、こんな着陸になってしまったのだ。
さて、気になるクラシナマッジ号であるが、あちらの飛行機はどうなっていたのか。
昭和6年9月8日に淋代海岸から離陸したが、その後、消息不明になった。そして、9月18日にはベーリング海の無人島に不時着していたことが判明。
そこを出発したあと、9月20日にアラスカのノームに再び不時着している。
そして最後はボロボロになって10月6日の夕方(日本時間)、タコマ市に帰還した。
ミス・ビードル号に遅れること十数時間だった!
無着陸はおろか、わずかな差で一番乗りもできなかったのである。
タコマ号が磯子の市電埋立地を離陸したのは昭和5年8月19日だった。しかしアリューシャン列島付近でパイプが破損し計画を断念。その後は機体やエンジンを改造してパシフィック号、クラシナマッジ号と名前を変えて横断飛行に挑戦してきた。
そしてとうとう、地元のタコマ市に帰って来たのである。市電埋立地を出発してから1年1か月半の時間が経過していた。
だが、話はここで終わりではない。
昭和7年、アメリカのウェナッチ市より青森県りんご試験場へ「リチャードデリシャス」の苗木が送られてきた。
淋代海岸から飛び立った組の飛行家たちには、機内で食べられるようにと、食糧に添えて青森産のリンゴ(紅玉)が提供されていた。苗木はその時のお礼ということだった。
その後、青森県りんご試験場での栽培を経て、日本全国にデリシャス系のリンゴが広まっていたった。
重力に逆らって飛ぶ飛行機
ニュートンが引力を発見したリンゴ
いままで関係のなかった二つの物がここで出会ったのである。
第54回いそご文化資源発掘隊 根岸湾は飛行艇の滑走路だった
(2022年3月11日開催)
第1部 時代の目撃者
◆飛行艇が飛んでいたころ
岡村に生まれ住んで90年になる葛城です。この間、いろいろなことが頭をよぎり、現在は磯子の歴史を掘り起こしています。大学の先生や博物館の学芸員が取り上げないような細かいことから、もう一度磯子の歴史を考え直してみようとやっていますが、その中でぜひ取りあげたいと思うのが、根岸にあった大日本航空の飛行場、飛行艇のことです。わずかな期間ですが、ここからサイパン、パラオ、そして最後にはティモールまで飛んでいました。
もう一つは根岸湾を挟んで南側、富岡ににあった横浜海軍航空隊の飛行場です。ここには現在神奈川県警第一機動隊が駐屯していますが、ここでも飛行艇を飛ばしていました。
ということで、当時は毎日のように根岸湾を飛行艇が飛び上がったり、着水していたわけです。
今では埋立地で覆われてしまい、一部を除いてその痕跡は消えてしまいましたが、こういうところは日本中を探してもここにしかありません。つまり、日本における飛行艇の歴史は根岸湾で始まり、敗戦後は機体の底に穴をあけて米軍によって沈められ根岸湾で終わったと言えます。
私たちのような年配者はこのことをまだ覚えていますが、だんだん若い人たちが増えてきて、そのような歴史を思い起こすよすがもまったく無くなってしまいました。
もし私があの世へ行ったら私の頭の中にある様々な記憶がそのまま雲散霧消してしまう。それは飛行艇乗りの皆さんにも申し訳ないことなので、色々な所へ行ってお話をしたり、書き残したりしています。
今日、このように杉田劇場にお招きいただき、皆さんにお話できることを大変うれしく思っています。
私は昭和5年の生まれで、当時はみんなそうだったように軍国少年、そして飛行機少年でした。日本の飛行機はもちろん、外国の飛行機のことも皆よく覚えたものでした。
普段とはちょっと違う爆音が聞こえてくると、屋根に上って「あれはなんだ」とか「初めて見る」とか言って、翌日は学校に行っていばったりしたものです。
いちばんビックリしたのは九七式大艇、エンジンが4つ付いた大型飛行艇です。夕方になると、練習の帰りなのか、パラオからの帰りなのか、岡村の私の家の屋根すれすれで海に向かって下りてくるのです。その音がものすごいのです。屋根に上って見上げると、空一杯が翼のような大きさでした。
そして2,3年あとには二式大艇ができました。それが飛んだ時はもっとビックリ。九七式でもすごい音でしたが、二式大艇が家の上を通過する時は、ガラス窓がビリビリするほどでした。
昨今でしたら騒音公害ですが、当時は戦争中ですから、親も「日本にはこんな立派な飛行艇があるんだから、戦争には絶対勝つんだ」と喜んでいました。
そしてこれは飛行艇ではありませんが、ゼロ戦がよく飛んでいました。B29が来るとこれが迎え撃っていたのですが、だんだん数が少なくなってきます。
そうすると今度は雷電という局地戦闘機が出てきました。これが誕生したときはその音たるやものすごいものでした。ゼロ戦は華奢で美しい飛行機でしたが、雷電は闘志満々でずんぐりむっくりしていました。
そんな飛行機を毎日見ている軍国少年でした。ドゥリットル中佐率いるB25が東京・横浜などを空襲したときも、あの飛行機を見て、「あれは双発エンジンで垂直尾翼が2つあるけど、日本の九六式陸攻ではないな、アメリカの飛行機だ」と、子どもたちの方が早く分かったのです。
根岸湾を滑走する九七式飛行艇
『浜・海・道』(発行:磯子区役所)より
二式大艇 後方は本牧
『浜・海・道』(発行:磯子区役所)より
音楽の時間もまともな音楽を教えるのではなく、外国の飛行機の爆音を録音したものを聞かせて、「これはグラマン」、「これはロッキード」と当てさせるのです。その後、毎日のように本物の音を聞くようになるとは思ってもいませんでした。
今日は3月11日ということで、東日本大震災のあった日ですが、その1日前の3月10日は東京大空襲の日でもあります。
滝頭小学校4年生の時ですが、神戸から宮田君という子が転校してきました。彼の父が根岸で飛行艇のパイロットをしているという話を聞き、みんなビックリしました。悪ガキたちにとっては、パイロットなんて神様みたいなものでしたから。
そんな彼の家に遊びに行くと、母親がバナナを出してくれるわけです。戦争中は高熱でも出さない限り、バナナなんて食べることができませんでした。非常に貴重な物なのですが、宮田君のお母さんはそれを何本も出してくれるのです。そこで飛行艇のパイロットって凄いなと感じました。
宮田君は神戸から来たといいましたが、お父さんは向こうの川西という飛行機製造会社で飛行艇の試運転に関わっていたのでしょう。そして根岸に飛行場ができるというので、神戸から移って来たのだと思われます。
根岸飛行場で働く独り者の若い人たちは根岸・滝頭・岡村あたりに間借りして下宿生活をしていました。富岡と違って根岸のほうは民間の会社でしたから、あまり軍の機密とかは関係ありません。ですから、子供たちの中には飛行艇に乗せてもらって横浜の上空を飛んだという人も何人かいるわけです。
今日は、横浜文芸懇話会会長の生出さんが来ておられるようですが、彼の家にも乗員が下宿しておりまして、生出さんは二式大艇に乗せてもらったそうです。私は根岸の格納庫に入っている九七式の中に入ったことはありますが、飛んだことはありません。
二式大艇は大きいので窓が上の方についているわけです。生出さんは子どもですから窓の外を見ることができない。中は真っ暗な倉庫みたいな感じで、東京湾の上を長時間グルグル回っていて、心細くなり少しべそをかきだしたころ、やっと根岸湾に着水したというお話を聞いたこともあります。
根岸の前の連合町内会長の佐藤さんなんかも乗せてもらったといいます。こういう飛行艇に乗せてもらったという話はあちこちで聞きましたが、彼らの多くは亡くなってしまっています。我々にとっては根岸の飛行場というのは懐かしい所であります。そして南の楽園と言われた南洋諸島に対する憧れをかきたてられる所でした。岡晴夫の「パラオ恋しや」と教室で歌っても先生に叱られませんでした。
根岸から海の向こうを見ると、富岡の航空隊がよく見えました。大きな格納庫やハンマーヘッドクレーン、飛行艇が見えるわけです。
そんなことで、ひとつ富岡まで見に行ってみようということで、自転車で出かけていったことがあります。鳥見塚のあたりから左の方へ入っていくと、今でも航空隊の門(複製)がありますが、そこに剣付き銃を構えた憲兵隊員が立っているわけです。そこで、「おい、こら!」と睨みつけられて、我々はすごすごと退散するしかなかったのです。
そこで今の富岡総合公園の丘に登ろうとするのですが、ここもすべて航空隊の敷地でありバラ線が張ってあって中に入れません。
この横浜海軍航空隊の跡地に現在は神奈川県警第一機動隊が入っています。その隣に金沢養護学校があり、2階に上がると昔の格納庫の絶好のビューポイントです。格納庫の前はエプロンでしたが、今、ここで機動隊員たちが訓練している姿もよく見えるわけです。
そこで子どもたちに昔の航空隊の話をしに行ったことがあります。彼らから出た質問にこんなのがありました。
「九七式と二式だったら数の小さい二式の方が先にできて、九七だとずいぶん後にできたんじゃないの?」と聞いてくるんですね。当時の機種には零戦(ゼロ戦)とか、九六陸攻とか、ハヤブサの一式とか、そういう数字を使っていました。
これはできた順番を表すのではなく、当時の日本には西暦の他に「皇紀」という年を表す数え方がありました。4桁の数字の下二けた又は一桁を取って、その年に制式採用された飛行機にその名前を付けていました。
つまり九七式というのは皇紀2597年(昭和12年)に採用されたから最後の二けたを取って九七式というのです。二式というのは2602年(昭和17年)にできたから、最後の一桁を取って二式といいます。
なぜ西暦を使わないのか。当時は西洋の言葉や年を使わず、日本の方が西洋よりも歴史が660年古いんだということで、皇紀を使っていました。神武天皇が即位して…なんていうことを話さなければならないのですが、神武天皇なんて言ったって今の子どもたちは知らない。だから、初歩的なところから話を始めないといけないのです。
ゼロ戦は皇紀2600年に採用されたから零(れい)式戦闘機なのですが、アメリカの方がゼロファイターと呼んだので日本人もゼロ戦と言うようになったわけです。
戦争がひどくなってくると1年間にいろいろな飛行機ができるわけで、何式だなんて言っていられなくなり、最後は雷電とか銀河とか名付けて、これを制式採用としていきます。
ついでに言っておきますと、零戦といってもいろいろな型があります。機体の一部を直したり、エンジンを積みかえたり、翼の端をちょん切って直角にしたのもありました。いろいろなタイプがあったので、零戦何型と呼んでいました。有名なのは零戦三二型というのがあります。二桁の数字を使っているのですが、十の位の三は機体の変化が3回ということを示しています。下一桁はエンジンを2回乗せ換えたことを意味しています。
ですからこれは1から始まって通し番号で32というわけではないのです。今の人はそういうことを知らないから、ゼロ戦「さんじゅうに型」なんて言いますけど、これは本当は「さんに型」なんですね。
あとよく聞かれるのが、「飛行艇は空気抵抗を少なくするために流線形がいいのに、なぜ下の方の底に段差があるのですか」という質問。
この答えには表面張力の話から入ります。お風呂に洗面器を浮かべて少しお湯を入れて、持ち上げようとすると力が要りますよね。飛行艇は陸上から飛び立つわけではなく、海の水の上から飛び立つわけです。着水している時は、お腹の辺りにベッタリと水が貼りついています。そこから飛び上がるので、洗面器のようなあるいは船のような流線形のスマートなボディであったら、水が貼りついてなかなか飛び上がれないのです。そうすると余計な燃料がかかる。
しかし段差があれば、少しエンジンをふかすとまずは1段目が水から離れます。そうすると水に接している部分が少し減るので、そのあとはだんだんと浮いてきます。
もう一つは「海には塩分があるから、あんなところに浸かっていたら錆びてしまうのではないの?」という質問です。
たしかに飛行艇は海から飛び立ったり、着水したりしていますが、常時、海上に浮かんでいるわけではありません。根岸や富岡のように格納庫の周囲にある程度の広い場所があれば、そこと海の間に造られているスベリという傾斜した誘導路を使って飛行艇を引き揚げて水洗いをします。
横浜航空隊の場合、富岡総合公園の山の上に今でも地下貯水池の痕跡が残っています。横須賀から水道をひいて、ここに水を貯めて機体を洗うのに使っていたんですね。
もともと、この飛行艇を使う航空隊は追浜の横須賀海軍航空隊の中に同居していました。横須賀の航空隊は首都、横浜の港湾地帯、横須賀の軍港地帯を守るための航空隊ですから陸上機ばかりです。
そんなところに飛行艇や水上戦闘機、水上偵察機があって水を大量に使うわけですから、いつも水浸しになるのです。
そんなわけで、陸上機と水上機を同じ飛行場の中で一緒に扱うのは難しい。しかも横須賀には米軍の爆撃機を落とすための戦闘機が多かったのですが、この戦闘機というのは殆ど一人乗りです。いうなれば一匹狼の世界です。
それに対して飛行艇は7人とか10人とかが協力してチームを組んで動かします。ですから戦闘機と飛行艇では乗っている人の気質とか行動様式がずいぶん違います。
たとえば酒を呑みに行ったら、戦闘機乗りは一匹狼ですからそれぞれ勝手なことをやるわけです。一方、飛行艇乗りはクルーが一緒になって呑みに行きます。その中で突出したような個性を持っている者は困ります。
そんなことで、戦闘機乗りと飛行艇乗りが同じ航空隊にいても気質的に合いませんから、二つを分離させようということで飛行艇部門を富岡に持ってきてできたのが横浜海軍航空隊なのです。
横須賀の方は陸上機なので広い敷地が必要だったから、戦後はその場所に追浜の工業団地ができました。富岡の方は滑走路がなかったので広い敷地は必要なかった。なので、跡地には工場地帯ができるわけもなく、県警の機動隊が入ることになりました。そしてそこには第3格納庫という巨大な施設が残っていますから、そこにテロ対策用の特種車両が並んでいたり、隊員の屋内訓練に使ったりしています。
飛行艇の設計で一番気を使うのはエンジンの取り付け場所です。塩水がかかってはいけないので、なるべく高い所に付けなくてなりません。九七式飛行艇は背が高くないので、機体の上に支柱を組みその上に翼を乗せ、そこにエンジン・プロペラを取り付けています。
(左)国土地理院空中写真より 横須賀 1947.8.11米軍撮影
(中)国土地理院空中写真より 横須賀海軍航空隊跡
1946.2.15米軍撮影
(右)国土地理院空中写真より 横浜海軍航空隊跡
1949.2.28米軍撮影
海から飛び上がったり、海に着水した飛行艇をどうやって格納庫に入れるのかという質問もあります。
海と飛行場の間にスベリというスロープを作って、ここを利用して出し入れしていました。そのために飛行艇の下に大きな車輪のついた台を取り付け、そこにロープを結んで大勢の人間で、あるいはトラクターのような自動車で引っ張っていました。下ろすときはゆっくりとスロープ上を滑らせ、引き揚げるときは真冬でも地上整備員が海に入って飛行艇に車の付いた台車を取り付けトラクターが引っ張ります。
現在、金沢養護学校はそのスベリの上にあります。養護学校の前は東金沢高校でしたが、どちらもそこには2階建て以上の建物は建てられません。運動場だったり体育館だったりしています。
なぜかというと下にあるスベリが分厚いコンクリートでできているからなのです。普通、階数の多い建物を建てる場合、その下にパイルを打ち込んだり、コンクリートで基礎をつくるのですが、ここはそれができない。穴をあけてもスベリから下には進めないのです。
追浜の横須賀海軍航空隊に同居していた飛行艇が、富岡に移って来て、さらに根岸にもできるというように、南から北に向かって進んできたわけです。
大日本航空の人たちは横浜航空隊の中で訓練を受けていましたが、根岸に飛行場ができると富岡から分かれて、民間の飛行機会社として独立していきます。
私は大日本航空の操縦士だった越田利成さんからいろいろお話を聞きました。当時、大日本航空を略してニッコーと呼んでいましたが、現在の日本航空(JAL)とは別ものなのです。あれは日本が南洋方面へ進出するために作った国策会社でした。越田さんは戦後、日本航空に入り北極圏航路を開拓したり機長会の会長を務めた方です。この方が根岸小学校で子どもたちに話したことに、こんな印象深いお話がありました。
越田さんは根岸で九七式や二式に乗っていた時が、自分の長いパイロット生活の中でいちばん生き甲斐があったとお話していました。退職するまで乗っていたジャンボなんか、操縦していても面白くないと言うんですね。あれは人間が飛ばしているのではなく、コンピューターが飛ばしているのだと。
それに対して根岸の時代はレーダーもなければ無線誘導もない、ましてやコンピューターもない。そんな飛行艇でどうやってパラオまで飛んでいけたのかというと、窓から下を覗いて「今、伊豆七島だ」とか「硫黄島だ」とか眼の力が一番役に立つと言うんですね。
それから速度計ですね。故障が多いのでそれに頼るより、窓から顔を出して自分の頬にどれくらいの強さで風が当たるかを感じ、それによって飛行艇の時速を判断していました。越田さんが強調していたのは人間の持っている五感の力でした。
いやな話ですが大震災が起きたり、あるいは戦争が起きたりして、機械がまったく使えなくなった時、人間の眼・耳・鼻・口といった人間に備わっている五感で外界の動きをキャッチして自分の行動を判断するということが大切だというお話でした。
もう一つ。戦争が終わって二式大艇を米軍に引き渡すとき、越田さんがエンジンをかけたけど、横に座っている米軍の飛行艇カタリーナの連中はスパスパとタバコを吸っているんですね。そこで越田さんは「煙草をやめてくれ」と言うと、彼らは「どうして? 俺たちはタバコを吸いながら操縦しているんだ」と言ってきたというんですね。これを聞いて越田さんはビックリしました。二式大艇は世界一の飛行艇だと言って威張っている方もいますが、アメリカの飛行艇はタバコを吸って操縦しても燃料タンクは安全なのです。タンクはゴムで覆われているいて、さらにゴムとゴムの間に生ゴムが入っているので、機銃で撃たれてもそこに生ゴムが流れ込むのでガスが飛行艇の中に充満することなんてありえません。
ところが、二式大艇もゼロ戦もブリキの缶にガソリン詰めて飛んでいるようなものですから、機関銃の弾を一発くらったらパーッと燃え上がっちゃう。そうでなくてもガスが機内に漏れてくるので、そんなところでタバコなんか吸ったら危ないのです。
越田さんはそれまで、二式大艇はすごい飛行艇だと思っていたのですが、こういう基本的なことでとてもアメリカにはかなわないなと感じたそうです。
日本人は突発力、瞬発力が強いですから、すべてを犠牲にしてある一点に集中すればすごいものを造るのです。戦艦大和がその例ですね。国民が食べるものもなくてどんなに苦しんでいても、バ~ンと頑張れば大和くらい造っちゃう。しかしベーシックなものがないから、そこで息切れしてしまいあとが続かないというのが、過去の日本の技術でした。
ゼロ戦もそうです。名古屋の三菱と群馬の中島飛行機でつくっていたわけですが、同じゼロ戦でも細かいところの仕様が違います。細かいところではビスの穴の大きさが違うのですが、ゼロ戦が送り込まれてきた方では、それが三菱で造ったものか、それとも中島飛行機で造ったものかは分からないのです。だからゼロ戦の修理をするにしたって、中島の飛行機なのに在庫は三菱のビスしかないというようなことで役に立たず、稼働率が悪いことがたくさんあったわけです。つまり標準化という生産工場で一番大切なことができていなかったのです。基礎のないところで技術の高さを誇るわけです。
例えば小学校の校庭に土をたくさん持ってきて富士山の高さの山を造ろうとしても無理なように、あれだけの高い山はそれを支える広い底辺面積が無ければできないのです。
日本の軍事技術というのは高さだけ誇って、その底辺がなかったということなのです。
根岸の飛行場というと、南方へ飛んで行った飛行艇だけの場所だと思いがちなんですが、あの中に学生航空連盟というのがあって飛行機の操縦の練習をしていました。大正・昭和の頃に日本中の大学生が飛行機の操縦を覚えたいということで、学生飛行連盟というのを作りました。それがあとで航空連盟と名前が変わります。
当時は自動車の運転ができるなんてエリートでしたが、そのうえに飛行機の操縦なんて、まさにエリート中のエリートでした。陸軍も海軍も将来のことを考えてこれを応援しました。
その連盟の会長をやっていたのが、法政大学の教授で随筆家の内田百閒でした。それから詩人の佐藤春夫が学生連盟の歌を作っています。
早慶戦なんかをやるときは、神宮球場の空の上から応援したこともあります。さらにヨーロッパまで親善飛行に出かけたりしていました。
品川、大森、鶴見の埋立地には民間の飛行学校がありました。当時は埋立地ができても、今みたいに転圧機やローラーなんかで固めることはできませんでしたから、花火大会なんかをやって大勢の人たちに集まってもらい、踏み固めていく、あるいは飛行機の離着陸を繰り返して地面を固めていくということをやっていました。前回の発掘隊で取り上げた太平洋無着陸横断飛行のタコマ号が飛び立ったのも、磯子の埋立地でした。これを見物するため大勢の人々が集まり、地面が踏み固められていったわけです。
根岸以外で練習した飛行機は陸上機でした。したがって卒業すると陸軍にとられてしまうのですが、根岸では水上飛行機を使っていました。当然のことながら、彼らはいずれ海軍に入るだろうということを考えて練習していました。
当時の学生はいずれ陸軍か海軍に行かなければなりません。陸軍だと最初は2等兵から始まり、古参兵からいじめられるわけです。
ところが海軍に行くと大学出は最初から中尉です。専門学校出は少尉です。最初から将校扱いで腰には短剣をぶら下げるのです。士官服を着て腰に短剣をぶら下げるというのは、当時の女学生からもてるわけです。 だから根岸にはたくさんの学生が集まりました。
そうなると学生を全部海軍に取られるわけで陸軍は面白くない。そこで根岸の卒業生は何割が陸軍、何割が海軍という協定を結びました。
ですから、海軍に行けると思っていた根岸の卒業生の何割かは陸軍に取られてしまいます。それでも陸軍で戦闘機に乗れるかなと思っていたら、筑波航空隊に入れられて大型グライダーの操縦をさせられる人もいました。
そのグライダーには完全武装した10人くらいの兵士が乗り、さらに小型の大砲や米軍のジープみたいな「くろがね号」という国産車も積載します。車の先には機関銃が取り付けられていました。
九七式重爆撃機で引っ張って敵の飛行場へ行き、近くなったらグライダーを切り離し、8分の1の角度で降下していき、着陸したら指揮官が自動車に乗って飛び出し機関銃で敵機を攻撃するわけです。
これはグライダーですから帰りは飛び上がることはできません。ですからこのまま全員が戦死するという特攻隊で、これをグライダー特攻と言います。その操縦士には根岸の卒業生が何人かいるのです。
根岸の飛行場で学んだ学生たちは、九七式や二式大艇の操縦士になった人たちばかりではなく、このグライダー特攻で戦死した人たちもいたということを、磯子の歴史の中に残しておいていただきたいと思います。
戦争が終わると、米軍から今後は飛行機を造ってはいけない、飛ばしてはいけないという命令が出ます。となると根岸飛行場に置いてある飛行艇も放置したままになります。
そんな時、飛行艇を1機仕立てて台湾まで飛べという命令が来ました。日本が戦争に負けたため、台湾の銀行では取り付け騒ぎが起きそうだということで、日本円を送り込まなければならなくなったのです。そこで大蔵省が大量の紙幣を印刷し、それを九七式飛行艇に積み込み、越田操縦士、武宮機関士らが富岡から根岸に向けて滑走を始めました。ところが重すぎてなかなか飛び上がれません。越田さんは本牧にぶつかる前に反転し、今度は富岡方面に向かってスピードを上げ続け、やっと浮上することができたそうです。
戦後の飛行機が飛ぶときは機体を真っ白に塗って緑十字をつけなければなりませんでした。米軍から白ペンキを調達したのですが、時間がないため半分しか塗装できず、そこに緑十字を書いて出発したわけです。
そして淡水というところに着水し、台湾政府に無事、紙幣を渡したのです。
戦後、日本のどこにも日本の飛行機が飛べなかったときに、根岸から飛び立った九七式飛行艇が紙幣を運ぶため台湾まで飛んだという歴史も記録しておきたいです。
二式大艇の方は香川県の詫間というところに全部集められていましたが、米軍がこれをアメリカで調査したいということで1機、横浜に持って来いということになりました。そこで、日辻さんという飛行隊長が操縦して、米軍のカタリナという飛行艇の先導で詫間から根岸まで飛ばしてきました。
ところが、二式大艇の方がカタリナ飛行艇より性能が良いため、すぐに追いついてしまうわけです。そのため日辻さんはジグザクに飛行して調整していたといいます。
根岸に運ばれた二式大艇はアメリカの水上機母艦に乗せて東海岸のノーフォーク基地まで運び、向こうで調査した結果、この飛行艇は最優秀の飛行艇であるというアメリカのお墨付きを得ました。
しかし、先ほどお話したように機内では危なくてタバコが吸えないというような問題がありましたが、アメリカ人はそこまで調べていなかったのかもしれません。性能だけなら最優秀だったのでしょうが。
それがやがて日本に帰って来て、お台場にある船の博物館に長い間展示されていました。
現在は鹿児島の鹿屋にある海上自衛隊航空基地の展示スペースに置かれています。そこは屋外なので、いずれ錆びてきたりするのではないでしょうか。
さっきお話した富岡の第一機動隊の中には当時の格納庫がそのまま残っています。かつてはここに飛行艇が並んでいたのですから、鹿屋からこちらに持ってきて安置できたら、夢のまた夢かもしれませんが、飛行艇も喜ぶのではないでしょうか。
横浜海軍航空隊も、大日本航空も、多くの20代、30代の若い方々が、南の方でたくさん亡くなりました。横浜海軍航空隊の跡には浜空神社(正式名・鳥船神社)というのが残されていますが、そこも隊員の生存者がだんだん亡くなっていき、お守りする方々が少なくなり、お社自体は近くの雷神社に移されました。今は記念碑だけが残されています。
普通の神社でしたら氏子さんたちが代々引き継ぐのですが、ここは隊員の慰霊のための神社ですから、氏子さんと言ったって元の隊員かボランティアの方しかいないのです。ですから横浜海軍航空隊の記憶も薄れていくわけです。日本の戦争に関する遺跡がだんだん忘却の彼方に追いやられて風化してしまいます。
あれだけの多大な犠牲を負わされた戦争の記録も記憶もだんだん薄れてしまって、「もう一辺、ロシアと戦争すればいいんだ」なんていう国会議員も出てくるのです。
我々が歴史を学ぶのは単に知識を蓄えるのではなくて、過去の歴史から将来につながる何かヒントをもらいたい。過去を勉強することによって人間は、あるいは国家は過去の間違いに気づき、この次に同じような場面に遭遇したら、もう少しましな選択をしようとするわけです。これが歴史の勉強だろうと思うのです。
我々は根岸と富岡という貴重な文化遺産、軍事遺産を抱えているわけですから、そこで血と汗と涙を流した若い人たちのことを思い出したいですね。
むかしの川西、今は新明和工業となっていますが、あそこで造っているUS-2という飛行艇は世界最優秀です。波が3mあってもちゃんと飛んだり下りたりできるわけですから。日本が持っている技術力の高さを誇らなければならないと思います。
このあと飛行艇野郎たちの映画があります。パイオニア精神、危険を恐れない、新しいことを自分の力で切り開いていくということがこの映画で描かれています。 あまり難しい話ではありません。当時の軍国調の映画ではなくて、友情だとかパイオニア精神だとか、くじけない精神だとか、そういうことを描いた映画であります。
嬉しいのは九七式飛行艇の細かい部分がよく出ていることです。俳優たちが乗る飛行艇を別の飛行艇が横から撮影するのですが、それを操縦していたのが先ほどお話した越田さんでした。それから飛行機乗りの敬礼の仕方だとか、報告の仕方だとか、ことば使い、作法を教えたのも越田さんでした。
この映画には1か所間違いがあります。新しい所長が大変厳しい人で綿密な検査をやるわけです。一人のパイロットが身体検査ではねられて気がおかしくなってしまいます。そこに九七式飛行艇が来るのですが自分は乗れないわけです。それで海の方へ向かって歩いていくのですが、あのスベリの上を歩いているのです。あの斜面はいつも海水に洗われているので海藻なんかが生えていてヌルヌルしています。とてもあんな風には歩けないわけです。
飛行艇を扱った映画には、この「南海の花束」の他に、ジブリのアニメですが、地中海を舞台にして飛行艇が飛び回る「紅の豚」というのがあります。その中に「空の空気と海の水で心が洗われるから、飛行艇乗りほど心のきれいな人間はいない」というセリフがあります。
根岸湾でも多くの飛行艇乗りが活躍していました。私たちはそんな飛行艇野郎の心意気を受け継いでいきたいものです。
(岡村在住 葛城峻)
◆私は見た 飛行艇の残骸を
最初にお伝えしたとおり、本来ならば森島さんがここに来られて、ご自分が体験したことをお話していただくはずだったのですが、どうしても急用ができて来られないということになりました。やはり体験者から聴くのがいちばんなので、何とかならないかと説得したのですが、どうしても今日は行けないということで、申し訳ありませんが私が森島さんからお聞きした話を代理で喋らせていただきます。補足する情報として私が調べたことも併せて報告いたします。
森島さんは小学校1年生ぐらいの時、市電埋立地の先端で毎日、海を眺めていました。写真①を見ていただくと、堀割川河口と根岸湾の航空写真が載っています。
右側の四角い埋立地、ここが大日本航空の飛行場でした。真ん中の細長い部分は動物検疫所で、左側の埋立地が市電埋立地と言われていた所です。昭和4年に横浜市電気局が造成しています。この先端に森島さんはよく立っていたそうなんです。
ここが先ほど葛城さんのお話にも出てきたタコマ号が太平洋横断飛行に飛び出した埋立地です。
ある日、この埋立地の先端で森島さんが見たものが、写真②に描かれている丸印のあたりでキラキラ光るものでした。それはいかだの上に乗っていたといいます。さらによく見ると、いかだには潜水夫や作業員が乗っているではありませんか。
この光景を見て、以前、母親が言っていた「戦争に負けて日航の飛行機を沖合に捨てた」という話を思い出しました。
この日はそれだけで帰宅したのですが、翌日また見に行くと、それは少し移動していました。こちら側に近づいていたので、今度ははっきりと見えたそうです。それで飛行機の残骸だと確認できました。
その後、そのことは忘れていたのですが、2,3日後、再び埋立地の先端に行くと、電気局入江の浜にそれが置かれているのを発見しました。
その光景が③のイラストです。森島さんはカメラなんか持っていませんでしたから、記憶だけでこのような絵をかいています。
それは巨大な鰹節のような姿をした船のよなものだったといいます。翼がないから船だと思うでしょうね。
本体は窓もガラスがなくなって枠だけになっていました。そして周囲を見回すと監視員も作業員もいません。これはしめたと思って、乗降口から内部を伺ったんですね。そうしたら壁や床には海藻、フジツボ、イソギンチャク、ヒトデなどがビッシリで、濃厚な海の匂いがしていたそうです。長いこと海中に捨てられていたため、こんな状態で引き揚げられたのでしょう。
そこで森島さんは、周囲に人がいないことを確認して内部に潜入しました。そうしたら床一面に生えている海藻で滑ってスッテンコロリンと転んでしまいまいた。足が痛くなり、結局この日はここまでで自宅に帰りました。
翌日。再び浜へ行き内部を調査しましたが、何らめぼしいものはなかったそうです。
そして数日後、再び見に行ったらあの残骸は忽然と消えていました。このときは不思議に思ったそうですが、あとになって考えたら、あれはスクラップにされたのだろうと気づきました。朝鮮戦争が始まり、金属の需要が高まっていましたから、引き揚げてスクラップにしたに違いありません。
後日、このことを母親に話したら、「それは日航の飛行機だね。何機も壊して海に沈めていたよ」と言います。
また別な日に、この埋立地から富岡の方を見ると、杉田海岸の沖の方に、なにやら鉄の塊のようなものが海面から突き出ていたといいます。「杉田の海岸にも長い間、飛行機が捨てられていた」と母親が言っていたので、これは海軍の飛行艇だったのでしょう。
杉田商店街の和菓子屋「菓子一」の相原一郎さんも同じことを仰っていますので間違いはないでしょう。相原さんも当時の光景を絵にして書いておられます。
ところで、小学校1年生なのに何故、森島さんはこんな埋立地の先端まで毎日行けたのでしょうか。
それは彼が埋立地の中に住んでいたからなのです。そこは磯子区磯子町1番地というところです。昔は磯子区磯子町字禅馬1番と言っていました。その場所はどこかというと、写真④をご覧ください。
ここは戦前から住んでいた人は数えるほどしかいなかったそうです。戦後、地方や市内から流れてきた人たちが多く、人口は60人くらいだったといいます。
この一帯は16号線、日本発条(ニッパツ)、バブコック日立の大工場で遮断されていて、地区外との交流が薄い独立した共同体のようなエリアだったそうです。
その中ほどに長谷鉄工所の2階建て事務所兼住宅があり、森島さんはここに住んでいのです。写真④の楕円形の部分が、森島さんのお父さんが働いていた長谷鉄工所です。
その横に△で示されているところ、そこが森島さんの住んでいた住宅です。だから小さい子でも毎日のように、埋立地の先端に行けたわけなのです。
昭和34年の明細地図にも長谷鉄工所が確かに載っています。ここに住んでいたからこそ、森島さんは飛行艇の残骸を見ることができたのでした。
この長谷鉄工所というのは、長谷巌と一郎親子が経営していましたが、実は電停「浜」の近くにあったアテネ劇場も経営していました。
この長谷巌さんと一郎さんはどんな人なのか調べてみました。
昭和21年3月に長谷巌さんの広告が出ていました。それによると日本改進党結成大会を磯子館(市電浜下車)で開催するというのです。
この磯子館が気になります。磯子館とは何でしょうか? どこにあったのでしょうか?
昭和15年の火災保険図(現代の住宅地図のようなもの)を見ると、アテネ劇場と同じ場所に「磯子日用品市場」というのが書かれています。
また、昭和25年の「月刊よこはま」(横浜市の広報雑誌)には、アテネ劇場は市場を改造した劇場と書いてあります。
これだけを見ると、アテネ劇場は戦前からある日用品市場を改造してできたと思えるのですが、もしかしたら日用品市場→磯子館→アテネ劇場と変遷をたどった可能性もあるかもしれません。
アテネ劇場がオープンするのは昭和21年9月です。3月の時点でここが市場だったのか、あるいは市場を改造して磯子館になっていたのかは今のところ不明です。
このような謎に、さらに混乱させる謎が加わります。美空ひばりの叔母である西村克子さんが『愛燦燦・ひばり神話の真実』という本の中で、こんなことを書いているのです。
「正子さんのご両親は戦前から磯子劇場(アテネ劇場)のそばで喫茶店を経営していましたが…」
今度は磯子劇場なんて言う名前が出てきました。この部分を引用して、「アテネ劇場は戦前、磯子劇場だった…云々」と書く評論家が出てきます。
しかし、西村克子さんが書いた「磯子劇場(アテネ劇場)」の部分の読み解き方に注意が必要です。というのは、アテネ劇場はその後「磯子映画劇場」になるのですが、これを略して磯子劇場とよんでいた人もいたようです。
西村克子さんはご自分にとって新しい方の名称で磯子劇場を使い、そこがかつてはアテネ劇場だったことをつけ加える意味で(アテネ劇場)としたとも考えられます。
ということで、アテネ劇場と美空ひばりの出演に関しては分からないことが多くあります。
一方、子どもの頃の美空ひばりが昭和21年の3月、4月に出演した旧杉田劇場。こちらにも謎が残されています。
劇場がオープンしたのは昭和21年1月1日でありますが、終わった時期が分かりません。会社として解散したのは昭和25年ですが、その後も葡萄座が公演をしたり、浜中の生徒が学芸会をしていました。貸館として存続していたのです。
また、旧杉田劇場を経営していた高田菊弥という人は大の演劇好きでした。その劇場では大高ヨシヲ一座がいつも公演をしていましたが、その劇団員の中に宮田菊弥と名乗る人物いたことが分かっています。
「高」と「宮」はよく似た形をしています。もしかしたら宮田菊弥は高田菊弥だったのではないかという疑いも。
そんなことで、旧杉田劇場、アテネ劇場、美空ひばりを巡る謎がまだまだ残されています。
今後は、これらをまとめて「いそご文化資源発掘隊」を開催できたらなと思っております。(杉田劇場:地域文化コーディネーター多根雄一)
第2部 映画「南海の花束」(昭和17年東宝)
昭和17年封切りの東宝映画「南海の花束」は当時としては珍しく戦意高揚のスローガン臭さのない、空の仕事に賭ける男の意地を中心とした映画だが、戦前から南方雄飛、南の楽園の幻想を引きずっていた。昭和16年に発表された歌謡曲、岡晴夫の「パラオ恋しや」はこの島の真珠採りダイバーの歌で、この映画に合わせて大流行するが、「海で暮らすならパラオ島におじゃれ…島の夜風に椰子の実揺れる」の甘い調べは二年後のマキン・タラワ玉砕の地獄絵巻などまったく予想しないものであった。
映画「南海の花束」は日本で飛行艇が登場する最初で最後の映画である。しかもその舞台が根岸の飛行場とあっては、磯子区民として忘れられない映画であった。監督は陸軍戦闘機が主役の「燃ゆる大空」の阿部豊、脚本は八木隆一郎。出演者は男の世界なので男優が多く、飛行場長を演ずる大日向伝以下、パイロットに河津清三郎、大川平八郎、清水将夫、田中春男、真木順、菅井一郎ら当時のスターや名わき役が顔をそろえた。
当時30代初期の杉村春子も殉職パイロットの奥さん役で後年と同じ渋い役を演じている。半年後の映画「ハワイ・マレー沖海戦」や戦後の「ゴジラ」その他で大活躍する特撮の円谷英二も、この映画に「特殊技術監督」としてキャストに名を出している。
犠牲者を出しながらも新空路開拓に執念を燃やす男たち、一番機操縦の栄冠をめぐる男同士の葛藤、身体検査で操縦士失格とされた失意の男、殉職搭乗員の妻の悲劇、冒険精神と男気のかたまり飛行艇野郎たちの悲喜こもごもの物語は、空と海のパイオニアスピリットをおおいに鼓吹したものである。
昭和16年9月9日、東宝ロケ隊の第一陣、阿部監督以下スタッフが根岸から九七式飛行艇「綾波」号で南洋に向け出発、翌10日には月田一郎ら俳優が第二陣として「磯波」号で出発する。これまで横浜~サイパン~パラオという定期航空路がポルトガル領ティモールまで延長され、また横浜~淡水~サイゴン~バンコックの新路線が開設されたのもこの頃である。
短期間だった根岸の飛行艇にとっては、迫りくる破局も知らぬ最も輝かしい栄光の時期であった。
従来のフロート付き単発の水上飛行機に代わる四発巨人艇の登場場面や、壮途につく壮行会の場面は実際に根岸の「スベリ(陸から海に移動するコンクリートの傾斜)」や巨大な格納庫内部で撮影された。また前段郵便飛行の水上機の部分は、琵琶湖の天虎飛行訓練所で撮影が行われたが、ここは幾多の民間パイロットを生んだ由緒あるスクールであった(後述の越田利成さんもここの出身)。ご自慢の根岸のターミナルビルが落成したのは11月22日だからこの映画に登場せず、記録として残せなかったのが残念でならない。
俳優といっても飛行艇どころか軽飛行機の操縦もまったくやったことのない素人ばかりだから、パイロットの越田さんがハンドルの握り方、応答の呼唱などの基礎から教えた。映画の中でどうやらそれらしく見えるのも「越田」教官ご指導の賜物である。俳優が乗って飛行する場面は、越田さん操縦の飛行艇を別に飛ばして窓から撮影した。九七式飛行艇は写真集に記録として残されているが、この映画ではディテールがよく写されていて、マニアにとって垂涎の作品といえよう。この頃の九七式飛行艇は海の貴婦人の装いのように全身白色の美形で、艇体も細身のしなやかさを感じさせてくれたが、やがて濃緑色の無粋な戦時色となり、「岡ッパル」の歌う南国の楽園賛歌など感じさせない。九七式飛行艇は華奢なので、いくら戦時色に塗り替えても巡洋艦には見えなかったが、二式大艇はまさに逞しい「空の巡洋艦」であった。
この映画を最後に根岸の飛行艇は、横須賀鎮守府の傘下に入って南方の基地に移動し、物資人員の輸送や孤島に取り残された兵士の救出など危険なフライトにあたるのだが、図体が大きく速力や武装も劣る悲しさで、多くは敵戦闘機の餌食になった。唯一の防御法は海面スレスレまで降下し、敵機の急降下射撃のための接近を防ぐしかない。残された米軍側の戦闘写真の多くは、海面上を火を噴きながらのたうち回っている飛行艇の姿ばかりである。
(葛城峻)
第55回いそご文化資源発掘隊 「大岡川を歩く」旧かねさわ道~旧すぎた道
(2022年5月17日開催)
歩いたコース
【集合】京急上大岡駅改札口前→大岡川遊歩道→青木神社→港南ふれあい公園【休憩】→刑務所作業製品展示場(販売所)→横浜刑務所→笹下稲荷神社・別れの一本杉→大岡川取水庭→大岡川分水路建設の碑→横浜市立日下(ひした)小学校郷土資料館→新川(あらかわ)橋→旧かねさわ道→元笹下橋→大岡川と左右手川の合流地点→旧すぎた道→杉田坪呑→京急杉田駅【解散】
約7km(3時間半)
【概要】大岡川・久保橋付近からプロムナードに沿ってスタート。青木橋を渡り青木神社から旧道へ。鎌倉街道を横切ると、その先には横浜刑務所の塀が続いています。付近にある刑務所作業製品展示場や、「別れの一本杉」などを見学。
川沿いに歩いていくと、突然現れる巨大な穴! 大岡川分水路に水を流すための大岡川笹下取水庭です。絶景を愉しんだあとは、川沿いの長閑な小径から旧道へ入りました。
環状3号線を渡ると間もなく旧すぎた道の入り口。樹林の中にひっそりと佇む石塔群。しばし江戸時代の空気を吸ったあと、その先の杉田坪呑の住宅地に飛び出しました。
細い道(旧道ではない)を進んでいくと、鎌倉街道へ出る直前に、古い橋が現れました。
昭和10年架橋の松本橋。コンクリート部分が昭和10年のもので、その上に足されているのは戦後設置したもの。
小学校を出て笹釜道路を進んでいくと、旧道の入り口が現れます。のどかな道で、磯子にこんな所があったのかと思うような風景が現れました。
ここは左右手側の合流地点です。
春は新緑が輝いてまぶしいくらいです。
秋は紅葉が美しく、思わず足を止めてしまうほどです。
磯子で紅葉といえば久良岐能舞台が有名ですが、ここは自然の景観が楽しめる場所です。
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横浜市磯子区民文化センター 杉田劇場
〒235-0033 神奈川県横浜市磯子区杉田1-1-1 らびすた新杉田4F
TEL:045-771-1212(開館時間 9:00〜22:00) FAX:045-770-5656
E-mail: sugigeki@yaf.or.jp
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