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第56回いそご文化資源発掘隊 文明開化を生きた歌人 大熊弁玉
(2022年9月15日開催)
大熊弁玉とは……
文政元(1818)年、江戸に生まれ、増上寺で修業ののち、嘉永3(1850)年、神奈川宿の浄土宗三宝寺(現・神奈川区台町)第21世住職となった。明治13(1880)年63歳で没するまで神奈川に住み、その間、得意とする短歌・長歌で異人館、人力車夫、蒸気車、鉄道自殺など開港から文明開化にかけての新事物、変貌する世相などを題材に、多くの作品を残した。
雅号を「由良牟(ゆらむ)呂(ろ)(瑲々室)」といい、長歌集「由良牟呂集」がある。
三宝寺では弁玉の命日(4月25日)を中心に、彼の事蹟の顕彰と作品を紹介する「ゆらむろ忌」を開催している。
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そんな大熊弁玉について、前・司馬遼太郎記念館学芸部長の増田恒男さんにお話ししていただきました。
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弁玉は文政元年(1818)、江戸浅草俵町の大熊卯八の四男として生まれ、幼名を鉄之助といいました。文政13年に浅草清徳寺に入り、大潮和尚に戒を受け満潮と称します。↓
天保 3年(1832) 芝三縁山増上寺へ入寺、大僧正明誉坐下において宗義を相承。
嘉永 3年(1850) 6月19日 神奈川三宝寺第21世住職となりました。
嘉永5年(1852) 『類題武蔵野集』『鴨河四郎集』に短歌入集。
安政3年(1856)~安政4年(1857)神奈川宿での歌会相次ぐ。(「金川日記」による)
安政4年(1857) 『類題武蔵野集』二篇に短歌入集。
安政5年(1858) 『類題千船集』に短歌入集。
文久2年(1862) 『玉籠集』に短歌入集。
明治3年(1870) 辨玉の弟没す。
明治4年(1871) 『類題新竹集』に短歌入集。
明治8年(1875) 森田友昇編『横浜地名案内』に跋文をよせる。
明治10年(1877) 『明治現存三十六歌仙』に入集。
明治10年(1877) 12月 辨玉書の望欣台の碑なる。
明治11年(1878) 1月 『芳風集』及び平塚梅花編の『王盛集』に入集。
明治11年(1878) 11月 『開化新題歌集』に入集。
明治12年(1879) 春近藤芳樹『由良牟呂集』序、古経堂主人松翁『由良牟呂集』跋
明治12年(1879) 10月 『箱根草第一集』に入集。
明治12年(1879) 12月 『由良牟呂集』二冊出版。
明治13年(1880) 4月 『箱根草第三集』に入集。
明治13年(1880) 4月25日病没(63)。
法名:善蓮社浄誉上人慶阿清歌興辨玉老和尚。
明治41年(1908) 『由良牟呂集』再版(3冊本)。
↑由良牟呂集
明治12年12月に出版した弁玉の長歌集。長歌213首、反(短)歌22首が収められている。
↑三宝寺(神奈川区)にある大熊弁玉の墓碑。
『由良牟呂集』を出版した翌明治13年4月に病没している。
↑墓碑拡大
明治13年7月25日、高島別荘において瑲々室、豊水門両社中で追善会を開く。これはその時の記事。
↑拡大。来る7月25日、神奈川台高島別荘において故瑲々室弁玉の追善会開催候間有志の……
↑弁玉師倭歌碑
この碑は、明治16年に高島嘉右衛門の邸内に建立されたが、その後は幾度か場所が変り、昭和41年になって現在の高島山公園内に据えられることになった。
現在では、碑の変遷経過は忘れられており、当初から今の場所にあったものと思われているのである。もっとも碑の移転理由は、個人の家の事情に起因しているため、その詳細は判然としないが、弁玉を語るうえでこの碑の変遷経緯を記しておくことも必要だろう。
明治16年、高島嘉右衛門はこの碑を自邸宅内に建てたのである。碑に建碑者の名前を刻す必要が無かったのはそのためである。三宝寺と高島嘉右衛門の邸宅は近接しており、ふたりには親密な交流があったことは『由良牟呂集』に、嘉右衛門の山荘についての長歌が収載されていることでもわかる。この山荘は迎賓館的役割を果たしていたらしく、養鸕徹定(うがい てつじょう)や福田行誡(ふくだ ぎょうかい)などの賓客がくるたび弁玉と嘉右衛門は、たびたびもてなしの宴を開いていた。
大正3年、高島嘉右衛門が没すると、高島邸から碑を移転することになったのである。どのような事情だったのかは不明だが、山荘など処分の必要があったのかもしれない。
この碑の移転を引き受けたのは、保土ヶ谷の素封家岡野欣之助であった。欣之助の父良哉は、弁玉に和歌を師事し、『由良牟呂集』の出版人のひとりであった。終生、弁玉を敬愛しており、弁玉もまた岡野良哉を頼みにしていたのであった。欣之助は、父良哉の弁玉に対する想いから碑を受け入れたのであろう。
大正5年1月、欣之助は自家の別邸千歳園に碑を移設させた。千歳園は、後年に西区の岡野公園となっている。
昭和4年に欣之助が亡くなると、また碑を移転することになったのである。これも推測だが岡野家で別邸千歳園を処分する必要があったのかもしれない。しかし所有者は変ることなく、保土ヶ谷にある岡野家の私園常盤園に移されたのである。常盤園は、欣之助が所有する山林を利用して造園した広大な庭園だった。
その後、この地は講談社社長の野間家の所有となったが、碑はそこに置かれたままであった。さらに野間家から横浜市へと所有者が代わったが、碑はそのまま置かれていたのである。やがて常盤園の一角に老人施設の恵風寮(現在・養護老人ホームの横浜市恵風ホーム)が建てられ、碑は建物の背後に位置するかたちであったが、そこに残されたままであった。
昭和39年当時、恵風寮の裏庭にひっそりと建つ碑を見た詩人の故近藤東氏は、その有様を憂い、当時の故飛鳥田一雄横浜市長宛てに、碑を相応しい場所へ移設し、保存するようにとの要望書を提出した。この動きに横浜文芸懇話会も同調したのであった。これへの市の対応は早く、昭和41年2月に当初の地にほど近い、神奈川区高島山公園に碑を移転させ、現在に到っているのである。
なお、この碑は高島嘉右衛門の業績を顕彰する望欣台の碑とともに平成4年に地域を知る上で重要な文化財として横浜市地域文化財に登録された。
増田恒男氏の論文『文明開化を生きた歌人・大熊弁玉……神奈川に弁玉といはれし僧ありて』より 『大倉山論集』第61輯 平成27年3月
明治44年、琴平神社(旧飯綱権現)境内へ移転
昭和初期、岡野家の私園「常盤園」に移転
大熊弁玉の長歌
「明治九年九月廿二日夜於鶴見村鉄道有人竊(ひそか)伏俟列車奔転身摧(くじく)於轍跡死矣聞此憐之乃作歌」
【読み】楽しきを誰か厭はむ悲しきを誰かほりせむ悲しかる極みといふは世の人の身まかるなるを天とぶや鶴見の里の鉄の道にこやりてはしり来る車にひかれ心から身まかりぬとふいかさまに思ひ惑ひし大御代は栄行くさかり里の名は千世呼ふ鶴見長からむ齢たのみて真盛の時をあふぎてかにかくにうきに堪へなば楽しきにまたあはしやはかなしけく命捨てけむ哀れ其人
【大意】楽しみは誰が嫌がろう。悲しみを誰が欲するだろう。悲しみの極みは人の死なのに、鶴見村(現・横浜市鶴見区)の鉄道に横たわり、走ってくる汽車に轢かれて自殺したという。どのように思い迷ったであろうか。新政になって世は栄えてゆくのに、また村の名は目出度い鶴見なのに。長い一生これから栄える御代を仰いで、じっと辛抱すれば楽しいこともまたあろうものに。悲しくも命を捨てた哀れな其の人よ。
新橋・横浜間で鉄道開通をしたのが明治5年である。この事件が鉄道自殺の最初とは断言できないが、鉄道自殺を詠んだ最初の歌であることは間違いないであろう。
「人力車夫」
【読み】大路行く人に雇はえ引きと引くちから車の七車数重ぬれど朝宵のけぶりの代にことごとに数へあつれば悲しかる老の父母愛ほしき吾が妻子らの明日の日を直ぐさむまけも借りて引く車の価借りて住む家の価の今日の日の代に為さむと糟湯酒啜りもかねて汗あえて息つき喘ぐいたつきをつらつら思へば行くさ来さ轍を拭ひ軸にさす油もおのが身の油なる】
【大意】人力車は、大路をゆく人に雇われ、客を乗せて廻るが、いくら多くの客をのせても稼ぎは朝夕の食費に費えてしまう。老いた両親、愛する妻子のための明日の蓄えと用意しても、借りている車の賃料や借家の家賃になってしまう。せめて食事の足しにしようとした糟湯酒(酒糟を湯で溶いたもの)も飲めず、汗を掻き、息つき喘いで一生懸命生活をしている。車の軸にさす油は、自分の身体の油そのものだ。
人力車は、和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の三名が発明者とされており、馬車や荷車からヒントを得たという。
明治3年その三人が営業を出願して許可されたといわれている。『横浜沿革誌』には「明治3年11月、神奈川・川崎間に人力車を創業す」とある。人力車は文明開化を象徴するものであったが、人力車を持つ者、借りる者といういわば資本家と労働者の構図がみてとれ、それを見抜いた弁玉の視線は、貧しい労働者に向けられているのである。
なお、人力車の発明は、横浜の宣教師のゴーブルという説もあることを附記しておく。
「安政六年己未六月於横浜地新設花街於是使近駅之遊女転移于新地送以軽輿矣余見之作歌」
【読み】古の唐のこきしが北国のえみしの長に送りけむ雅をみなの行く行くも慰めかねて乗る駒の歩みもなづみ四つの緒の琴の音みだり玉と散る涙ぬきけむためしをもひきてぞ思ふ蟹がゆく横浜のへに移り住む浮かれ女がとも桜花匂へる姿望月のゑめる面わもかきくれて袖うちおほひ夏草のしなへうらぶれ穂薄の露にしほたれうなかぶし濡れそぼちゆく写し絵の選びなりせばまひしても描き違わせて洩れぬべき術もあらむを術もなき身を歎きつつ悲しみて厭ひながらも外つ国の人に枕を明日は交さむ
【大意】漢の王から匈奴の王に贈られた女性・王昭君の故事のように、新開地横浜に移されていく遊女たちの桜花の匂えるような姿、満月のような笑顔も悲しみに沈んで、袖で顔を覆い、夏草のように心も萎み、尾花が露に濡れたようにうなだれ、横浜へ連れて行かれる。似顔絵で横浜に行く遊女を決めるのであれば、賄賂を使ってでも醜く絵を描いて貰い、選に洩れるようにする方法もあろうものに、そうする術もない身の上だ。いやいやながらも明日からは外国人と枕を交わすのであろう。》
◎横浜の開港は、題詞にあるとおり安政6(1859)年6月である。この時に外国人用の遊郭も営業を開始したのである。そこに近隣の宿場から遊女たちが集められたもので、その様子を詠んだものである。ちなみにこの遊郭は仮設のもので、この年の11月に港崎遊郭(現・横浜スタジアムのある地)が完成し、本営業を開始した。横浜開港の裏面史といえよう。
「過横浜異人館作歌」
【読み】武蔵の海 横浜の津は まゐ来ぬる 外国とつくに人の 分けて住む 町も八十やそ町 やちまたに つづく高屋の 庭広き 厨くりやを見れば 猪ゐの子は 垣つに放ち 牛は 杭うちつなぎ 庭鳥は 伏籠ふせごに飼へり 生膚いくはだを 断ちて煮らゆか 逆剥さかはぎに 剥ぎて焼かゆか 朝菜の饗あへ 夕餉ゆふけの設まけに しが親を 取らくを知らに しが子を 取らくを知らに 遊ばひをるよ 鳥もけものも
【大意】武蔵の海に面する横浜の港は、渡来した外国人が、日本人と分けて住む町も数多く、たくさんの街路に列なる高い建物の広い庭の調理場を見ると、豚は柵の中に放ち飼い、牛は杭を打って繋ぎ、鶏は伏籠に飼っている。生皮を斬って煮られるのか。逆剥ぎに剥いで焼かれるのか。朝食の馳走、あるいは夕食の用意に、自分の親を取られることを知らずに、自分の子を取られることを知らずに、遊び続けているよ、鳥も獣も。
安政6年(1859)6月に横浜港が正式に開港されると、間もなく山下町辺りに山下居留地(関内居留地)が完成し、さらに慶応3年(1867)には山手居留地が増設されて異人館が建ち並んだ。弁玉はいずれかの居留地で異人館を見る機会があったのであろう。居留地の人々の暮らしぶりが髣髴とするが、畜肉を食う文化風俗に対して当時の日本人が受けた衝撃も生々しく伝えている。
杉田日記
「相将ひきい友人某々遊杉田梅林作歌」
【読み】蟹がゆく横浜のまち級しなたてる石川の坂山そばの根岸の畑百たらず五十子の浜みつ栗の中原の道すぎすぎて杉田の里にひさこに酒さへいれわりごにいひさへもりてはろばろと来しいたつきもおもふどちわすれてぞみる梅のさかりに
【大意】横浜のまち、石川の急な坂道、山そばの根岸の畑を、百に足らない五十子(磯子のこと)、三つある栗の真ん中の中原を通り過ぎて杉田の里へやっと来た。瓢に酒を入れ、割子(弁当箱)のご飯もつめて、道すがらの苦労も忘れ、今を盛りの杉田の里の梅見を楽しみますよ》
洒落た掛け言葉を使い、横浜の地名を織り込みながら杉田の梅見物を楽しんでいる弁玉たちの一行が眼に浮かぶ歌である。
弁玉の和歌についての評価
①大和田建樹(たけき)(愛媛出身の国文学者で歌人、詩人。「鉄道唱歌」は有名)
「近年は神奈川に弁玉といはれし僧ありて。長歌もて名ありしが。つとめて新事実新言語をよみこまんとせし跡の見やるは。また風潮の向う処を見るべし」
②斎藤茂吉(歌人)
「弁玉の歌は、新しい材料、新しい趣向を歌ってゐるが、やはり和歌革新の運動には参与しなかった。ただ後年の気運を形成したのは既に弁玉あたりの作物にもその気勢が見えると謂って好いのである」
③小泉苳三(とうぞう)(横浜生まれ、歌人、文学博士) 「その長歌は古語古調を巧に駆使して、しかも新題を自由に歌ってゐる。まことに功名ではあるが、姿が目立って内容がこれにともないかねる憾がある」
④日夏耿之介(こうのすけ)(詩人、英文学者)
「一般的にいえば長歌形式で新詩材を歌ったものの感じは時代おくれの国文家が、一図に驚心動魄する滑稽な痴態以上に出なかった」
⑤窪川鶴次郎(静岡生まれ、文芸評論家―プロレタリア文学)
「「鶴見村での少女の鉄道自殺」「岩亀楼の遊女喜遊」を詠んだ長歌をつらぬいているものは、庶民の労苦や不幸への深い同感である」
弁玉をめぐる人々
養鸕徹定(うかいてつじょう) …知恩院第75世、浄土宗管長。
福田行誡(ぎょうかい) …知恩院住職、浄土宗管長。
加藤祐一 … 神奈川奉行所の役人で、維新後は五代友厚の片腕となり大阪経済の発展に尽力した。『文明開化』『会社弁講釈』など啓蒙書、経済書を著した。
木村敬弘 … 神奈川奉行所通詞。英語に堪能で新潟開港に従事。米澤の興譲館で英語を教授す。妻はま子は相楽総三の姉。青山墓地の敬弘墓碑は弁玉が記す。
平塚梅花 … 漢詩人、もと浄土宗の僧侶。明治初年横浜に来住し弁玉と親交。
荒波直方 … 保土ヶ谷生まれ、弁玉の門人で保土ヶ谷の発展に貢献。
岡野良哉 … 保土ヶ谷生まれ、門人で保土ヶ谷の発展に貢献。
弁玉の死
「弔辨玉師」…平塚梅花の漢詩から、長患いではなく急逝したことがわかる。
寄跡金川三十年 半宵微疾即終焉 上天應是有歌撰 急召善歌斯老禅
福田行誡の追悼歌(「後落葉集拾遺」『福田行誡上人全集』所収)。
三寶寺の 老僧此頃 なくなりしと つげたるをききたがひて驚きて 老いの耳 こしとききしは 違ひにて 西にゆきしと いうはまことか
弁玉は、横浜開港や文明開化についての新事物や現象などを長歌・短歌で詠んだ。
それらの歌は新体詩の先駆けと評価され、歌壇史に特異な位置を占めている。
またその和歌は記録文学として、新しい横浜の姿を伝えた。
神奈川宿一大文芸サロンとしたのみならず、横浜自体の文化の興隆に貢献した。
神奈川、保土ヶ谷をはじめ各地の門人たちを育成するという教育者であった。
総じて、地方の文化人という枠にはおさまらない人物といえるであろう。
【了】
第57回いそご文化資源発掘隊 暗渠探索の愉しみ
(2022年11月7日/10日/11日開催)
暗渠とは何か
どういうものか、その定義から始めました。
「渠」とは人工の水路、掘り割り、溝をいいます。たとえば船渠といえば、船を建造・修理するための巨大な溝です。そして暗渠とは、狭義では蓋をした川や水路を言います。これを土木事務所に聞いたところ、地中の管渠を暗渠というとのことでした。
しかし、ここでは川や水路の跡も含めて暗渠とします。
暗渠化された理由
昭和30年代から川の環境が大きく変化してきました。工場や家庭からの汚水が流れ込み、悪臭もひどくなってきて、その改善が求められてきたのです。
川の環境は見た目や汚れだけではなく、さらに衛生的にも問題があるため、その対策が必要になってきました。
その他に、豪雨の浸水対策という目的もありました。大雨が降るとあちこちで川が氾濫したりしていたので、そのための対策もあったのです。
そして昭和37年、横浜市で初めての下水処理場となる「中部下水処理場」(現・中部水再生センター)が中区本牧十二天に造られました。磯子方面の汚水等を扱う南部下水処理場は昭和40年に完成。これは横浜市で2番目の施設となります。
同じころ根岸湾の埋め立ても進み、この二つの下水処理場はその埋立地の上に建設されました。
昔も今も、磯子の丘から根岸湾に流れ込む川はたくさんありました。
北から眺めていくと、まずは堀割川。これは自然の川ではなく、明治初期に開削した運河です。
そして禅馬川。この川は汐見台、久良岐あたりから岡村、滝頭を通って根岸湾に注ぐ長大な河川です。
その南に位置するのが芦名川。昔の欄干を柵に利用した芦名橋公園やバス停名でその存在が知られています。そのそばには、名前はよく分かりませんが、安藤橋の親柱が残されている小河川がありました。
磯子駅から南側には、まず大岡川分水路。これも自然の川ではありません。大岡川がたびたび氾濫するため、昭和44年度から県市共同のもと事業を開始して、昭和55年度に完成した水路です。
中原から杉田にかけては多くの川が流れていました。
陣屋川。京急屏風浦駅近くの高台から流れていました。
白旗川。白幡川とも書くようですが、屏風ヶ浦付近の中心的な川です。
そして中原を源流とする境川と杉田坪呑あたりを源流とする聖天川。
二つの川は京急杉田第2踏切で合流し、今も暗渠の面影が強い杉田商店街の裏道の下を流れています。
杉田川は短い川ですが、磯子区と金沢区の境界を今も流れている川です。
暗渠の姿
根岸湾埋め立て前の風景(磯子区役所発行の『浜海道』より)
↑森浅間神社から(昭和20年代)
↑上の写真と同じ場所から(昭和30年代)
↑上の写真と同じ場所から(昭和60年代)
↑昭和30年代の屏風ヶ浦交差点
↑白旗付近でアサリの収穫
↑ベカ船
↑海苔洗い
↑海苔干し
↑海苔拾い
昭和34年から始まった根岸湾の埋め立て
昔の地図を見ると海岸線は、だいたい今の国道16号線と重なっていた。国道からあちこち出っ張ったところは、戦前の、それも明治や大正から埋め立てられたものだった。だが、なんといっても磯子を現在の姿に変えたのは戦後の埋め立てだ。
その埋め立て工事は、昭和34年2月に始まり46年2月まで、実に12年もの月日が費やされていた。
昭和30年といえば、「もはや戦後ではない」といわれ、農村から都会へと人々が地すべり的に移動する「戦後日本の都市化」が、まさに始まろうとしていたーー。
時あたかも、日本列島は朝鮮動乱による特需景気をバネに、所得倍増に向けて高度成長のツバサをはばたかせる前夜であったから、根岸もその滑走路の一本となった…。
時を同じくして、川の埋立てや暗渠化も進んでいったのである。
根岸湾に注ぐ水路を遡行する
この講座では禅馬川、芦名川、聖天川の3つの川を取りあげた。その解説の前に、堀割川について少しだけお話をした。
これは明治36年測図(1/20,000)の地図。赤い点線が根岸と滝頭を分ける境界線である。もともとは、このライン上に八幡川という細くて屈曲した川が流れていたという。
明治7年に直線的な堀割川という運河を開削したため、根岸監獄は滝頭側に残り、逆に滝頭の八幡様は根岸側に残されてしまった。
八幡神社のある原町町内会は根岸地区に所属しているのだが、お祭りの際は根岸八幡ではなく、滝頭地区の一員としてこちらの方に参加しているのである。
八幡橋と八幡神社を描いた着色絵ハガキ。Aが売られていたハガキであるが、何かがおかしい。橋と神社の関係だ。
これを反転してみたのがBの写真である。河口から見た橋と神社が正しく描かれている。
つまり、売られていた絵ハガキは裏焼きだったというわけだ。
正面奥が16号線から河口に向かう暗渠。
ここから源流までのコースについては、11月10日に行った探索の報告で語るので以下は省略する。
芦名川は磯子6丁目からの流れと、山王台からの流れが芦名橋公園のあたりで合流し、産業道路を越えて根岸湾へ注いでいる。
この先は行き止まりだが、
マンホールの下から大きな水音が
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