第59回いそご文化資源発掘隊 磯子に花街があった
(2023年3月15日開催)
磯子にはかつて海岸線があり風光明媚な場所で、横浜の財界人や外国人たちの別荘や保養所がたくさんできた。
それが、大正時代に料亭が並び、芸者の三味線が聞こえる花街(二業地)へと発展していった。
場所は、今のバス停『浜』から杉田まで、16号線の海側の戦前の埋立地になる。
いちばんの中心地は、浜から芦名橋あたりで、たくさんの料亭や置屋が並び、芸者を料亭に送り込む事務局としての見番もあった。
「多津奈」、「深川」、「磯川」、「磯常」などが老舗料亭で、当時は毎夜、毎夜、三味線の音が流れていたんだろうと思う。
第1部では花街研究家の山岸丈二さんに「横浜の遊郭と花柳街」と題して、磯子にあった花街と芸者の歴史を語っていただいた。
第2部では横浜芸者による演奏をお楽しみいただいた。
第1部の内容
1.遊郭の起源
2.芸者の起源
3.娼妓と芸妓(遊郭と花柳街)
4.横浜の遊郭
5.横浜の花柳街
6.戦後の混乱と盛衰
1.遊郭の起源
日本最初の遊廓は、1589年、豊臣秀吉により、京都・二条柳町に開かれた公許の遊廓が始まりとされている。
のちに六条を経て、朱雀野に移転し、島原遊廓と呼ばれた。
2.芸者の誕生
太夫が減少し、芸を補助する芸者が分離。深川で小唄三味線の師匠となった「菊弥」が起源。羽織を着たため「羽織芸者」とも呼ばれた。
江戸期の吉原遊郭では、「容姿端麗で知識や芸事」に秀でている人が太夫という最高位だったが、のちに芸事のレベルが下がり太夫がいなくなってしまった。そして、次第に遊女の芸を補助する芸者が分離していく。
芸者は一般的には宝暦5年(1755)に吉原で生まれたとされているが、最新の研究では深川発祥となっている。
吉原説から約70年前の元禄期に葭町(よしちょう)の遊女・菊弥が小唄三味線の師匠となり、深川八幡前に開いた茶店が繁盛し町が栄えたという伝承が有力視さている。
菊弥は当時男が着ていた羽織をまとった男装であったことから羽織芸者とも呼ばれた。
画像の左は吉原三浦屋の高尾太夫(出典:江戸名所図会)
右は羽織芸者(出典:東京自慢名物会)。
3.娼妓と芸妓(遊郭と花柳街)
江戸期の芸者は遊女と明確に分離していたと必ずしも言えない。しかし、明治時代の横浜で起きたある事件が芸者の分離に関わってくる。それはマリア・ルース号事件である。
明治5年(1872年)に横浜港に停泊中のペルー船籍のマリア・ルース号から逃亡した清国人苦力を、日本政府は彼らは奴隷であるとして解放した。これは美談として物語や映画、演劇で取上げられたが、今回重要なのは、この後の裁判でペルー側から「日本にも前借金の遊女奉公という奴隷制度がある」という指摘があり、これが「もと」で同年10月に「芸娼妓解放令」が公布されたという説である。しかし実際はどうかというと…
実際は、明治政府はもともと解放令をマリア・ルース号事件の前年から検討していたので、事件が解放令を生んだのではなく、解放令を後押ししたというのが正確。
この背景は、江戸期は遊郭から税金を徴収していたが、江戸末期には私娼街が勢力を伸ばし税収が落ち込んでいた。明治政府は江戸期の制度を壊し、野放しの私娼街も取り込んだ税収の増加を目指していた。従って、解放令は売春禁止令ではないということが重要なポイントなのである。遊郭は貸座敷として残り、解放令は事実上骨抜きとなった。
この「芸娼妓解放令」を受け、翌年、「貸座敷渡世規則、娼妓規則、芸妓規則」の3規則が公布される。
芸娼妓解放令の公布(1873年)
●芸妓・娼妓の人身売買の禁止
●前借金の無効
貸座敷渡世規則の公布(1874年)
●遊郭は貸座敷営業指定地として指定
娼妓規則・芸妓規則の公布(1874年)
●娼妓、芸妓は鑑札許可
●娼妓と芸妓が公的に分離
とくに3つ目の「娼妓・芸妓規則」により遊女と芸者が法的に区別されたが、娼妓と芸妓が変わらず貸座敷営業指定地に共存していた。
その後、新たに芸者町の花柳街である貸座敷が誕生するので、旧遊郭と区別が付きにくい理由の一つになる。
「貸座敷営業指定地」であるが、三業地・二業地などとも呼ばれていた。三業地とは、公安委員会から「料理屋・芸者置屋・待合」の3種の営業が許可された指定地で、二業地とは「料理屋に芸者置屋か待合のいずれか」が許可された指定地のこと。
待合は遊興と飲食の場だが、料理を直接提供せず仕出しだった。これが料理屋との大きな違いである。
見番とは、三業や二業組合の事務所の俗称で、芸者を登録させ、客席に出る芸者の取り次ぎや玉代(ぎょくだい)の計算などの事務を扱った所。
また、東京においては大正期以降の新興花街が「三業地」という名称を使い始めて、花柳街=芸者町の意味合いが強くなってきた。
なお、芸者置屋が無い二業地には、他の場所から芸者を呼ぶため泊まりがけとなり、料理屋と待合を兼ねた「料理旅館」があり、神奈川は料理旅館が多い傾向だった。
新たな花柳街の誕生
貸座敷渡世規則と鑑札制度により芸妓が増加し、大正7年には初めて全国統計で芸妓が娼妓の数を上回り各地に新たな花柳街が誕生した。
全国の貸座敷:500ヵ所
娼妓:約4万、芸妓:約6万
大正12年に関東大震災が起きて一時不況を迎えるが、徐々に復興し昭和初期には花柳街が全盛期を迎えた。
4.横浜の遊郭
開港後の遊郭の変遷
安政6年(1859) 港崎遊郭開業
慶応2年 大火で焼失
慶応3年(1867) 吉原遊郭開業
明治4年 火災で焼失
明治5年(1872) 高島町遊郭開業
明治15年 営業終了
明治21年(1888) 真金町遊郭開業
昭和33年 赤線廃止
横浜開港に伴い、外国奉行は開港場に近い関内の太田屋新田に港崎(みよざき)遊郭を作った。現在の横浜公園の場所である。
港崎遊郭以降、火災等で、吉原、高島町、真金町と3回移転し、昭和33年の赤線廃止まで存在した。
5.横浜の花柳街
横浜の芸者
当初は主に遊郭付きの芸者から構成されていた。
●港崎遊郭 : 関内芸者(住吉、常盤、尾上町)
●吉原遊郭 : 関外芸者(羽衣町)
●神奈川宿 : 神奈川芸者
●保土ケ谷宿 : 保土ケ谷芸者
横浜は、港崎遊郭横の関内、吉原遊郭横の羽衣町、宿場女郎がいた神奈川、保土ケ谷宿など、遊郭地に近接して芸者置屋が多くあった。
●関内芸者
関内は新橋、関外は赤坂、神奈川は柳橋といわれ横浜随一の花柳街
●芸妓屋
岩泉、新岩泉、新美濃、河内屋
大正11年には、阿部定が関内の芸妓屋・春新美濃へ
●割烹料理屋
佐野茂、伊勢文、富貴楼、千登勢、八百政
写真:関内芸者(横浜市史稿 風俗編)
各地に新たな花柳街が誕生
「貸座敷渡世規則」の公布後、横浜にも多くの花柳街が大正期を中心に誕生した。
大正期の見番所在地
関内、関外、本牧、日本橋、蒔田、井土ヶ谷、御所山、掃部山、藤棚、磯子、神奈川、東神奈川、子安、鶴見、潮田、保土ケ谷
震災後設立した見番所在地
大久保、森(磯子区)、綱島温泉
廃止された見番所在地
寿(関外へ合併)、弘明寺(蒔田へ合併)、平沼(戸部へ合併)、戸部(御所山へ合併)、最戸(大久保へ合併)、元町、北方
磯子の花街
大正10年の埋め立てが終わったことの絵図。砂浜が広がり、海水浴場ができている。
同じ年の別な地図。
数ヶ所の海水浴場が整備されている。
さらに温泉旅館ができて、徐々に横浜の財界人や外国人たちの別荘や保養所ができた。
花柳街の祭り(大正時代)【写真出典:『浜・海・道』】
「浜」にて(大正時代)
【写真出典:『浜・海・道』】
磯子は「料理旅館と待合のある二業地」だったが、後に芸者置屋もできた。
実質的には三業地だった、なぜそのまま二業地だったのかは研究の余地がある。
海岸線に建つ料亭・雨月荘。山の上にプリンスホテルの日本庭園の鐘楼が見える。【写真出典:『浜・海・道』】
大正7年創業の待合「たづな」の主人・金川利三郎(かなかわ りさぶろう)は伊勢佐木町の寄席「新富亭」に出演するほどの芸達者だった。
その後古今亭志ん生の門下となり真打ちに昇進し「二代目・古今亭志ん馬(しんば)」となり、俗称で「横浜の志ん馬」と呼ばれた。
【出典:『浜・海・道』】
「新大横浜市全図」の左下に「偕楽園海水浴場」の名前が見える。
ここの場所に磯子花街随一の巨大料亭の「偕楽園」があった。
これは昭和22年(1947年)の観光案内。磯子海岸と偕楽園と雨月荘の紹介がある。
『ひたひたと寄せる波打ち際から右手に三浦半島の山々、正面遥かに房総の墨絵の様な姿を眺める此処磯子海岸は躍動する横濱半面の厚生保険地帯である』
偕楽園は、明治43年創業、明治40年の梅乃園や大正11年の磯子園と並ぶ老舗料亭で、海軍の利用も多く、横須賀にあった料亭「小松」と同様、海軍料亭と呼ばれていた。
さて、この偕楽園の経営者は何者なのかという謎がある。
右側の赤枠は、関内にあった海外移民の人々が多く宿泊した移民宿「大勢屋旅館」、左枠は「偕楽園」だが、経営者は同じ「島田国太郎」となっている。
偕楽園は、移民宿の組合である「横浜外航旅館組合」が経営していた。
これは昭和30年代の埋め立て中の写真。偕楽園海水浴場は無くなり、海岸線は遠くなっている。やがて、偕楽園の目の前に根岸線が開通。この頃になると、遊興地も関内などの中心に移り、偕楽園は昭和43年に閉館した。
磯子花街の痕跡
偕楽園のあった場所は、駅前の磯子アイランドと三丁目団地になっている。
温泉割烹江戸徳は、江戸徳ビルにその名前が残り、裏手には創業100年の碑がある。
葦名橋交差点近くの山の上にある海向山金蔵院(かいこうざん こんぞういん)には、関東大震災で崖崩れに巻き込まれて亡くなった偕楽園の女中の方々の慰霊碑がある。
磯子旧道入口交差点手前のあたりに古い街灯が残っている。地元の方のお話によると、この街灯は花街時代からのものだという。丁度この道の先に見番があったので、この通りが花街のメイン通りだったのだろう。
八幡橋(やはたばし)の八幡神社(はちまんじんじゃ)にも痕跡がある。謎の球体が乗る石碑には、「磯子二業組合・芸妓組合」の名が彫られている。
磯子見番や、二業組合有志として金川利三郎の名前も。金川利三郎は待合「たづな」の亭主。
戦後の横浜の進駐軍慰安所
当初バンドホテルを検討したが互楽荘となる。
その後、各所において営業開始に再変更された。
昭和20年9月3日開始
大丸谷、曙町、新天地、楽天地、入船私娼街、蒔田二業地
昭和20年9月5日開始
真金町遊郭、大久保二業地、磯子二業地
その後
磯子・森、綱島
【出典:神奈川県警察史(下巻)】
昭和21年には人権問題からGHQの指導でRAAが解散、娼妓取締規則が撤廃された。これにより長年日本で行われてきた「公娼制度」が一応、無くなった。
しかし、行先のない女性が街娼・私娼となり問題化したため再び、貸座敷に変わり「特殊飲食店」と呼ばれる風俗営業許可地ができた。
許可地が赤線、非許可地が青線と呼ばれ、特飲街またはカフェー街と名称を変えた。
一方、花柳街は、そのまま芸者街として存続し利用者は進駐軍が多くなり、「フジヤマ、ゲイシャ」が世界に広がった。写真:亀有の赤線(個人蔵)
昭和21年の横浜市の花柳街だが、規模として最大なのは磯子二業地になる。
空襲からの復興が早かった地域で差が出ているものと思われる。
昭和32年に、売春防止法が施行され、翌33年に江戸期から続いていた「公認遊郭」がついに完全消滅した。
しかし、近年、各地でその歴史と文化を守りたいと望む人々が出てきている。是非、横浜でも徐々に花柳街が復興すると面白と思う。
第2部 横浜芸者による演奏とお座敷遊び
磯子小唄
磯子花街で親しまれた唄だったが、磯子芸妓組合が無くなってしまうと共に、この唄も唄われることはなくなった。
2021年、胡弓奏者 木場大輔が三味線を作調(※)し、復活した名曲。
※作調…邦楽で、三味線の曲に合わせる囃子(笛・小鼓・大鼓・太鼓など)の奏法を定めること。
野毛山節(ノーエ節)
この曲は開港直後の文久年間に野毛山から見た居留地の兵隊をモデルにして作られた。オッピキヒャラリコなど日本らしい擬音でラッパなどを表現している歌詞が面白い。
大変人気があったメロディーで、静岡では「富士の麓でノーエ」という替え歌も残っている。
濱自慢(復興小唄)
今年は関東大震災からちょうど100年。
濱自慢は震災後、私財を投げ打って横浜復興のために尽くした原三溪が作詞している。この杉田からも当時、三溪園に杉田梅を船で運んだ記録が残っている。
春夏秋冬の四番形式で、「横浜良いところじゃえ」と横浜の情緒を感じさせるこの曲は、震災、戦争、そしてコロナと、その時代の芸者を救った名曲である。
柳の雨
唐人お吉は実在した女性。
開港後の日本はすぐに外国人を受け入れたわけではなく、とても警戒していた。
国のために、見張り役として外国人の妾にさせられる女性もいた。
一見華やかで給料も良かったことや、様々な事情から同じ日本人から「ラシャメン」と差別を受け、自ら命を落とした女性がいた。
開港した横浜は、いいことづくしだけではなく、こういった女性達にも守られたのだということを伝えるのも、横浜芸者の使命だと思う。
美空ひばりメドレー
この杉田で初舞台を踏んだ歌姫の人気のナンバーをお楽しみいただいた。
お祭りマンボ~真っ赤な太陽~東京ブギウギ~愛燦燦~川の流れのように~お祭りマンボ
篠笛:横浜わ加 踊り:横浜楓 |
お座敷遊び 「とらとら」
「金毘羅船船」と並んで、芸者とのお座敷遊びの定番として長年親しまれてきた日本の伝統芸能。ジェスチャーを使ったジャンケンである。
近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」の主人公である「和藤内(わとうない)の虎退治」をモチーフにしている。
遊び方
1.芸者とお客の間に屏風などを立てて、お互いの姿が見えないようにする。
2.ジェスチャーの決まりは、「和藤内」は槍で突くポーズ、「虎」は四つん這いのポーズ、「老母」は杖をつくポーズ。
3.和藤内は虎に勝ち、虎は老母に勝ち、老母は和藤内に勝つというルールである。
4.唄に合わせて、ポーズを決めた二人が屏風から同時に身を乗り出す。屏風で見えなくても、他のお客さんの表情から芸舞妓さんのポーズを予測して駆け引きをするのも楽しみの一つと言える。
第60回いそご文化資源発掘隊 暗渠探索の愉しみ パート2 講座編
(2023年4月14日開催)
「渠」というのは溝とか堀割という意味。暗渠というのは地中にあって見えないから「暗」なのである。左の暗渠は聖天川。商店街の裏道にある。真中の柵渠は栗木で見つけた。笹下川に流れ込む水路である。右は中原にある開渠。これは古い地図にも載っている。
暗渠を見つけるためのサインというものがある。一つは痕跡。橋の跡、護岸の跡、車止めなどだ。もう一つは製餡所、クリーニング店、豆腐店など、大量の水を使う店。川や水路の近くに作られやすい。最後は行政の境界線。水路を境界としていることが多い。
横浜市土地宝典磯子区之部(昭和6年刊)
この地図には地番ごとの所有者、地目が書かれたページもある。それによって田・畑とか宅地とかが分かる。海に注ぐ広い川は聖天川で、京急の線路に向かう真っすぐ道が現在の杉田商店街。
その川が途中で曲がって、今の杉田第2踏切の方へつながっている。ここは現在、道路になっているが、地図を見ればわかるとおり昔は川だったのである。これが暗渠だ。
聖天川はもう一本、京急杉田駅の方から流れてきている。それは途中から商店街の道沿いに進み、上記の暗渠道と合流し国道16号線を越えて根岸湾へ注いでいる。
地図上の赤色の四角で囲ったのが、昔の聖天橋だ。
左側に青い線が縦に描かれているが、これが境川である。ここも現在は暗渠になっている。
土地宝典が面白いのは、地番ごとに土地の利用目的が分かることだ。地図上の地番を地目別に色を付けていくと、昭和初期の風景がよみがえってくる。
地図の中ほどを横切っているのが昭和5年に開通した当時の湘南電鉄、現在の京急線。
上辺に描かれている鉄道は市電。中ほどにある水色のかたまりは「ため池」。
右側が根岸湾で、太めに描かれているのが白旗川。それ以外にも小さな小川や水路が湾内に流れ込んでいた。このような川や水路が山から養分を含んだ水を海に送り込み、沿岸漁業を支えていた。
これは陣屋川(じんやがわ)が描かれた地図。『磯子の史話』によると「じやのかわ」と呼ばれていたという。「じやのかわ」が訛って「じんやがわ」になったのかもしれないが、このあたりに間宮康俊の陣屋があったので、それにちなんで名づけられたのであろう。
今回取り上げた境川、白旗川、陣屋川は京急線の山側を水源地として流れている。
このエリアの特徴は、川の流路が短く、さらに水路が多いということである。
二つ目は、その結果として海が近いという特徴。
そして三つめの特徴は、途中に用水池(ため池)があるということ。
そのような地形的状況から、こんなことが言える。
一つは、道が狭くて「一方通行」が多いということ。
二つ目はニュータウンなのに「らしく」ないということ。
三つめは坂がきついということ。
こちらの地形図は今回探索する3つの川。
●印はため池。
いちばん上の短いのが陣屋川で、禅馬川と比べると非常に短い。
その下にある二股に分かれた川が白旗川。
その下の幾筋にも分かれているのが境川。こちらも流路は短いのが特徴である。
陣屋川 『磯子の史話』では西ノ谷ルートしか書いていないが、陣屋川には二つのルートがある。「はまれぽ」というWEBサイトでは、古老に聞いた話として東谷ルートが陣屋川で、その他にもう一本あったとしている。講師の見立てでは、湘南電鉄(現京急)が開通した時に、この川を分断してしまい2系統の流れができたのではないかという。
東谷ルート
遡るコースでいうと、大岡川分水路から産業道路沿いに進み、磯子車庫前を右折。
環状2号線の屏風ヶ浦交差点を直進する。
途中で左斜めに入る路地がある。ここが狭い暗渠部分。
京急ストアの前を通って、汐見台に上がる坂の上までとなる。
東谷ルートを河口部分から遡ってみる。
排水溝。苔むしているのも暗渠サインである。
ハマのマークが入った境界標。(この間に水路があったかも)
東谷への入り口。手前の道路は環状2号線。
東谷ルートのゴール。このあたりに水源があった。
西ノ谷ルート 今度は上流から河口に向かってみる。
源流から下って屏風ヶ浦バイパスの下をくぐる。さらに進み環状2号線を横切り屛風浦駅の裏に出る。線路に沿って進みガードをくぐり白旗商店街を抜ける。突き当りを右折して16号線に出るというコースである。
西ノ谷=水源
西ノ谷の奥に七曲りという坂があり、鬱蒼とした森が広がっており、階段には常に水が流れている。
このあたりは水が豊富であることが分かる。
京浜急行で遮られているが、この先に水路は続いているのか?
土地宝典で見ると、京急に遮られて水路が消えている。
線路の反対側。水路はないが、もしかしたらこれが痕跡かも。
西ノ谷用水池(ため池)跡。
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