いそご文化資源発掘隊2024(3)

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第66 旧富岡海岸のトリビア


第66回いそご文化資源発掘隊 旧富岡海岸のトリビア

(講座編:2024年9月20日開催/まち歩き編:9月24日・25日開催)


開 催 日/【講座編】2024年9月20日(金)

     【まち歩き編】  同 9月24日(火)・25日(水)

開催時間/【講座編】13:30~16:00

     【まち歩き編】13:00~16:00

   場/【講座編】杉田劇場4階 コスモ

                  (リハーサル室)

参 加 者/【講座編】30

     【まち歩き編】25名(2日間のべ)

講  師/ 多根雄一(元杉田劇場職員/暗渠呑ミスト)

参 加 費/【講座編】700

     【まち歩き編】500円

 昭和11年10月1日、久良岐郡金沢町と六浦荘村(むつうらそう)は横浜市に合併し、磯子区に属した。各町村は富岡町、谷津町(やつちょう)、柴町(しばちょう)、洲崎町(すざきちょう)などになる。新しく磯子区民となった人口は約15,000人。地元では「今日から横浜市民」となり、横浜市歌を歌い記念式典や旗行列で合併を祝った。

戦後の昭和23年5月15日、磯子区から独立して金沢区が誕生した。

◇金沢区の変貌は六大事業から始まった

 ①都心部強化事業

 ②金沢地先埋立事業

 ③港北ニュータウン建設事業

 ④高速鉄道(地下鉄)建設事業

 ⑤高速道路網建設事業

 ⑥横浜港ベイブリッジ建設事業

桜木町駅と東横浜駅 後方は三菱重工など(昭和55年)

三菱重工などが移転したあとの姿(昭和57年頃)



 六大事業が進んでいる頃、当時の飛鳥田市長は横浜市会で次のような答弁を行っている。

 

●三菱重工業の工場が桜木町と横浜駅の間にあるということは、どう考えても納得できない。この三菱重工業の土地が商業地区あるいは道路、公園等になるならば、横浜の景観は一変するだろう。

全面的に移動したあとは横浜市の都市計画的指導のもとに、新しい都心業務地区として再整備していく。

●神奈川区、西区、中区、南区の住工混在した町を解消したい。そのためにはこれらの工場を金沢の埋立地に移転してもらう必要がある。

●建設省が湾岸道路を平潟湾に通すと言ってきたが、私たちは金沢最大の文化財を何とか守りたい。八景海岸は保存する、平潟湾も完全に守る。

●金沢区は住宅団地だらけになっている。ここに近代下水道を与えなければならない。

●埋め立て用の土をどこから持ってくるか。昭和25・26年ごろから30年ごろにかけて、京浜急行があの山を買収していた。我々はこれを調整区域の中に入れておいた。埋立てにはこの山土が使えるのではないか。(昭和48年5月23日の市会答弁から)

 

◇新山下から金沢へ移転させた貯木場

金沢地先埋立事業のなかには新山下貯木場の移転も入っていた。

昭和8年(1933)に建設された新山下貯木場だが、「今後は外材の輸入量は増加する」として昭和38年(1963)、横浜市貯木場調査研究会が移転を提案。

新山下貯木場(昭和46年)



 それを受けた横浜市は昭和42年(1967)、新貯木場を金沢地域に決定し、昭和45年(1970)、建設に着手。昭和49年(1974)に第1船が着岸した。

 しかし、木材港が完成した頃からコンテナ船が登場。さらに木材生産地での製材加工がすすむなど社会情勢が変化。原木の輸入は減少し、昭和62年(1987)にはほとんどゼロになった。

 昭和62年(1987)、遊休化した金沢木材港の貯木水面を活用した金沢地区マリーナ計画を決定。平成5年(1993)、水面の一部埋立て工事に着手。平成7年(1995)、新しい埋立地にヨットの帆にちなむ白帆町という町名が付けられた。

 

 これは埼玉大学が提供している時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」で、全国59地域について明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示できる。このサイトを使って金沢区の海岸線がどのように変わってきたのかを見てみる。



 富岡八幡宮参道下から十二天の鼻にかけての旧海岸を宮の前海岸といった。宮の前海岸は東浜海岸とともに富岡漁港の拠点であったが、昭和46年、金沢地先埋立により宅地化され海岸は消失。

昭和53年(1978)、参道下の旧海岸に旧富岡漁業協同組合によって埋立記念碑が建てられた。

埋立て記念碑にはこのようなことが書かれている。

 

「…私達富岡漁業協同組合員は、波除八幡の守護のもとに、……ここは、遠く房総の山並みを望み、緑豊かな松並木と富岡漁港があり、清らかな水が湧き海に注ぐところであった。かつて、この地先の海を並木の漁場と呼んでいた…」

◇埋立前の風景

 昭和30年代の富岡海岸。海に突き出している岬は八幡の鼻。林の中に富岡八幡がある。

 

 海面に並ぶのは「のりひび」。冬場には海苔の養殖をしていた。

昭和40年代の富岡海岸。潮干狩りの光景だろうか。

昭和46年の乙舳海岸

文庫小学校前の海岸(昭和39年)



◇進む宅地造成

昭和48523日の横浜市会において、市長が「金沢区は住宅団地だらけになっている」との答弁があったが、その頃のことを昔の写真で見ることができる。

京浜富岡駅(昭和39年)

昭和31年 家が建ち始めた分譲地



◇青砥藤綱の墓・青砥・クツモ

杉田から金沢へ向かう国道16号線が環状3号線と交差する所に「青砥坂」という交差点がある。ここから富岡総合公園方面に向かう真っ直ぐな坂道を登り、最初の右折道路を曲がると青砥藤綱の墓がある。

この人物については様々な言い伝えがあり、詳しくはコチラを。

 

青砥というのは昔の字名にもなっているが、『新編武蔵風土記稿』では大戸と表記されている。大戸が青砥に転訛したと考えるのは難しそうなので、もしかしたら青砥藤綱を無理に関係づけたのではないかとも勘ぐってしまうが…。

その青砥から先に進むと、見晴らしの良い富岡総合公園「北台展望台」に至る。

 三島由紀夫『午後の曳航』(昭和38年)では昭和30年代の北台のことが書かれている。

 

 

 

「道は青砥の山沿いに金沢区へ入っていった。(略)富岡隧道を潜りぬけると、右側の山沿いを京浜急行の線路が走り、左手には丘いっぱいに新しい明るい分譲地がひらけていた。(略)その分譲地の坂道をまっすぐに登ってゆく。途中から道が消えて草深い荒地、全く人影のない所に入ってゆく。坂を登りつめると俄かに広大な眺めが展開する。(略)足下の方には崖に巨大な赤土の斜面が削られ(略)飛行機会社の規則正しい灰色の屋根(略)向こうに朱色の起重機がゆるりと頭をもたげていた」

北台展望台からの眺望。

このあたりをクツモといった。



◇横浜海軍航空隊

 昭和11年10月1日、磯子区に編入された金沢町富岡にて横浜海軍航空隊(浜空)の開隊式が行われた。飛行艇の基地になったが、今は神奈川県警察の施設となっている。

 当時の日本は広大な南洋委任統治領を抱えていた。群島間を移動するには飛行艇が適していた。

 昭和13年、民間の大日本航空海洋部が誕生し、オーストラリア近くのチモールまで、6000kmの海外航空路開拓を計画する。浜空の基地入口に大日本航空の仮事務所がつくられ、浜空隊員の指導で飛行訓練が始まった。

 昭和14年4月、第1回目の定期便が富岡から出発。サイパン経由でパラオまで行った。月2,3回のペースで飛んでいた。乗員は浜空隊員と大日本航空社員の混成チームで、民間の定期便としての飛行の他に、南洋方面の偵察も兼ねていた。

 昭和15年、根岸に大日本航空の飛行場が完成し、3月、根岸からの第1便が出発した。


鳥船神社・浜空神社跡・鎮魂碑

横浜海軍航空隊の隊内鎮守として鳥船神社があった。伊勢山皇大神宮を勧請。飛行艇部隊だったので神話の天鳥船から、鳥のように丈夫な飛行艇が飛んでいたことにちなんで命名された。

戦後、浜空神社となったが、平成20年、追浜の雷神社境内に遷された。



◇シーサイドラインに乗って

 新杉田駅の自動販売機に描かれている、シーサイドラインのマスコットキャラクターの「柴口このみ」※詳細はコチラ

 シーサイドラインは平成元年に開業。当時はワンマン運転だった。平成6年からは自動運転。高架軌道上をゴムタイヤで走っている。

 シーサイドラインの駅メロは、各駅によって使われている曲が異なる。海に関する童謡の他に、オリジナルソングと小田和正の曲が流れる。

 

 1番線(新杉田→金沢八景)と2番線(金沢八景→新杉田)では違う曲が流れており、列車が近づく時の着メロは最初の4小節で、出発するときの発車メロは次の4小節になっている。



◇公園名や橋名に残る海の思い出

 埋立地には昔の海や漁業に関する名称を付けた公園や橋がある。

 並木十二天は慶珊寺前にあった岬の名前だ。波除は津波から地域を守ったことで名づけられた富岡八幡の別名「波除八幡」にちなむもの。イガイ根は漁場にあった岩礁の名前だ。のりべかは海苔の養殖で使っていた船の名前。

 サルダの鼻と何だろうか。鼻は岬のことで、サルダは猿田遺蹟だという。この岬と猿田遺跡の両方をある角度で遠望できる場所が漁場の一つだったのだろう。

 遺蹟は円海山の向こう側にあるので、海からこれが見えることはなかったはずなので、おそらくその近くにあった電波塔をヤマアテに使っていたと思われる。

 



◇富岡八幡宮の祇園舟

富岡八幡に伝わる800年の歴史のある神事で、横浜市指定無形文化財の第号。五穀豊穣と豊漁に感謝し、氏子の災厄を海に流す神事である。

 茅でつくった舟に12本の御幣を立て、これに一年間の罪穢れを託し、八幡丸と弥栄丸という艘の船で沖合いに流しやる。



 潮の流れのあるところまで来ると、茅舟は放流され沖合い遠くに流される。帰路は2艘の船が全速力で浜まで戻って来るお祭りである。



◇3つもある憲法起草の記念碑

 伊藤博文が井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の協力を得て明治21年6月から洲崎の東屋で憲法の草案を練った。その東屋は千代本と共に高級料亭旅館だった。

 ある日、東屋に盗賊が侵入し、伊東巳代治の寝室から憲法草案の入った柳行李が盗まれた。翌朝、周辺を探したところ田んぼの畔道で行李を発見。幸い金銭だけ抜き取られて書類は無事だった。

 その後、作業メンバーは横須賀の夏島にある伊藤博文の別荘に移り、ここで草案を練り、明治22年2月11日に明治憲法が発布された。

 昭和10年、金子堅太郎により東屋の庭に「憲法草創之碑」が建てられたが、昭和30年、東屋の廃業により一時野島に移された。その後、「歴史の道」整備の折、現在の三叉路ロータリーに移設された。

 

 これは横須賀市夏島町にある碑。正式には「夏島憲法起草遺跡記念碑」という。伊藤博文らが夏島で明治憲法の草案作成を行ったことの記念碑である。

碑文は伊東巳代治が書き、大正15年11月、別荘の跡地に記念碑が建てられたが、現在は北方に約200m移設されている。

 

 慶珊寺の境内にある戦争犠牲者諸精霊の碑。石碑の横にはこう書いてある。

 

 昭和二十年六月十日横浜市富岡町ハ米軍ノ爆撃ヲ受ケ数多ノ犠牲者ヲ出ス 偶々当地ニアッテ非業ノ死ヲ遂ゲシ諸聖霊無念ノ恨ミヲイダキテ当苑ニテ仮葬セラル 時移リ平和ノ世トナリテ三十数星霜往時ヲ知ル人数ナシ 今ココニ檀徒有志ト共ニ供養塔ヲ建立シ聖霊ヲ慰メ併セテ戦没者各霊ノ追福菩提ヲ祈ルモノナリ

昭和五十五年春 慶珊寺第十九世 隆定識

 

 

 

 写真左は京急富岡駅横のガードで、右のトンネルは昭和4年に完成した人道トンネル。無用のような存在になっているが、当時は重要な通路だった。

昭和20年6月10日、富岡駅(当時は大東急の湘南富岡駅)は米軍の爆撃により、付近の民家とともに全壊。このトンネルに避難した乗客を含めて数十人の死傷者を出した。

 



◇長昌寺

 長昌寺の山門には芋観音の札が掛かっている。寺には「霊芋大明神縁起」なる記録が残っており、こんな言い伝えがある。

 ある池に楊柳観音が湧出し、地主の松平右門の夢に楊柳観音が現れ、こう言った。

 

 「我は世間の人々が苦しんでいる疱瘡患者たちを救いたく思い、仮に芋明神となってこの地に現れた」と。

 

 右門は夢から覚めて池を見て、一宇を建立し尊像を安置した。

 

 中原の熊野神社に残されている「杉田十境眺望図」。根岸湾から眺めた現磯子区の風景が描かれている。この左端に「イモカミ」が見られる。

 長昌寺の中に直木三十五の墓がある。直木は昭和8年12月、慶珊寺裏に新居を構えたが昭和9年2月に死去。

はじめは慶珊寺に葬られたが、のちに長昌寺に改葬された。

 写真右が直木三十五の墓石で、左は胡桃沢耕史の墓石。

 

開港後、横浜に居留地ができ、外国人が本国の文化を横浜に持ち込んだ。その一つが根岸湾の別荘文化である。

富岡には外国人が滞在して海水浴を楽しんだ。ヘボンもその一人。塩湯治といって紹介したという。続いて、政治家や横浜の商人や文化人が別荘を建てた。

 明治22年、東海道本線開通により、別荘は大磯などへ移る。

 

  三条実美 クツモの浜(富岡総合公園の北東部)

  大鳥圭介 料亭・元「海宝楼」近く

  田中不二麿 現富岡東3丁目付近

  井上馨 八幡宮から富岡駅に向かって数分

  田沼太右衛門 八幡宮の下・料亭・元「海宝楼」を利用

  佐藤繁次郎(印刷会社文寿堂社主) 富岡八幡裏手

  川合玉堂 京急富岡駅近く



◇富岡を流れる川

 富岡にはいくつかの小川があるが、その中で最大最長のものが富岡川である。

 土地の古老はこの川を地蔵川とも呼び、河口をドンドン、やや上流を前田川、さらに上流を耕地の川とも呼んでいた。(『伸びゆく富岡写真史』より)

 

 富岡小学校通りにも自噴する井戸がある。場所は富岡駅から富岡中央商店会を150mほど歩いたところの駐車場脇で噴き出している。

 富岡駅の裏から富岡西公園方面に向かって「富岡川せせらぎ緑道」がある。ここは暗渠になっているのだが、その構造がおもしろい。昔の川を暗渠にしたその上をせせらぎが流れているのだ。

 

 

富岡総合公園と周辺で観られる暗渠や水路。写真左上は公園内にある暗渠だ。右は湧き水。

 

 写真下の2枚は北台川の開渠部分。

 長昌寺から旧海岸通りを16号線に向かい200mほど行くと、二股に分かれる道が出てくる。右側を進んで約100m行った所に自噴する井戸がある。湧出量がすごい。この水が南台川に注ぎ込んでいると思われる(写真上左右)。

 

 さらに、その周辺では暗渠や開渠を見ることができる。

 かつては、山からしみ出た養分やミネラルを含んだ水がこういった川となり、さらに金沢の海に流れ込んで豊かな漁場を作り出していた。

 

 しかし昭和30年代から始まった宅地造成で山や丘は削られ、川は暗渠化されていった。そして昭和40年には、横浜市が計画した六大事業の一つである金沢地先埋立事業が始まり、昭和63年、その事業がほぼ完成した。

富岡総合公園の一画には、旧富岡漁業協同組合によって建てられた埋立記念碑ある。そこに、こんなことが彫られている。

 

 「…私達富岡漁業協同組合員は、波除八幡の守護のもとに、……ここは、遠く房総の山並みを望み、緑豊かな松並木と富岡漁港があり、清らかな水が湧き海に注ぐところであった。かつて、この地先の海を並木の漁場と呼んでいた…」

【了】

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