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第64回 旧杉田劇場の看板役者 大高ヨシヲの謎に迫る
第64回いそご文化資源発掘隊 旧杉田劇場の看板役者 大高ヨシヲの謎に迫る
(2024年3月5日開催)
開 催 日/2024年3月5日(火)
開催時間/1回目13:30 2回目18:30
※初めての試みとして昼間と夜間に同じものを開催した。
会 場/杉田劇場4階 コスモス(リハーサル室)
参 加 者/37名(のべ)
講 師/井上学(脚本家・演出家・FT興行商社代表)
参 加 費/700円
旧杉田劇場で活躍していた大高ヨシヲ。昭和21年1月1日に磯子区杉田町2184番地に開場した(旧)杉田劇場の専属劇団「暁第一劇団」の座長だったが、同年10月1日、巡業先の長野県で交通事故に遭い、死亡している。
たった9ヶ月くらいしか情報がない人である。これから、そんな彼を皆さんと一緒に探していこうと思う。
まず前半は、私が大高ヨシヲを探すのにどれだけ苦労していたかを追体験していただく。後半はこれまでの調査で分かってきたことなどをお話ししていく。
大高ヨシヲをめぐる謎を5つに分類した。いつ、どこで生まれたのか当然分かっていない。
写真がないのでどんな顔をしていたのかも不明。大高ヨシヲは昭和21年に杉田に来ているので、彼を見たことがあるという方は、おそらく95歳以上の方になるのではないか。見たことがあるという人の証言は残っている。「男前だった」そうだが、具体的な顔は分からない。
そしてどこに住んでいたのか。横浜に住んでいたのか、それとも東京あたりに住んでいて横浜に通っていたのか、それも分からない。
杉田劇場に来る前は何をしていたのか。本当に役者だったのか。だとしてもプロだったのかアマチュアだったのか、それも不明である。
そして、なぜ杉田劇場に来たのか、これも分からない。
大高ヨシヲは一体何者なのか。これを軸に考えていきたい。
こんなに謎だらけの大高ヨシヲだが、実は有名人なのである。なぜかというと、大高ヨシヲ一座の幕間で美空ひばりがデビューしたということで、大高の名前は有名になっている。
西川昭幸さんが書いた『美空ひばり 最後の真実』の中でこんなことが載っている。
「当時の劇場は、大高ヨシヲ一座で大盛況の日々が続いていた(中略)劇場幹部を集めて話し合いの結果(中略)一応出演が決まった。しかし、歌うのは休憩時間で幕前、ノーギャラが条件」
いろいろ出版されている美空ひばりの伝記や評伝などを読むと、たいてい大高ヨシヲが出てくる。
荒井恵美子さんが書いた『美空ひばり ふたたび』という本の中にも出てくる。
「人気絶頂の大高ヨシヲひきいる大高劇団の常設館として杉田劇場はお目見得した(中略)美空楽団はここに目をつけた。恐らく喜美枝が聞き付けて来たのだろう(中略)杉田劇場では和枝が歌って、正子が踊るという舞台を三ヶ月も続けた」
本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』でもこんな風に書かれている。
「喜美枝が和枝を連れて杉田劇場にやって来たのは、まだ大高ヨシヲが人気を保っていたころのことである。用件はいわゆる売り込みであった。劇場側は幕間のつなぎとして、和枝を起用することにした」
このように、美空ひばりのデビューに関する様々な本には、必ずと言っていいほど大高ヨシヲがくっついてくる。
しかし、大高ヨシヲはどんな人だったのかは、みんな分からないのである。名前だけ残っていて実態が分からない人。それが大高ヨシヲである。
郷土史の資料の中にも大高ヨシヲは出てくる。葛城峻さんの『やぶにらみ磯子郷土誌』の中にもこんな風に書かれている。
「横浜を中心に活躍していた大高ヨシオを座長とする大高劇団の約二十人を専属に迎え(中略)人気を博します。連日札止めの賑いで表の電車道には百メートルもの行列ができました」
横浜の演劇史を研究している小柴俊雄さんも、『横浜演劇百四十年』の中でこのように書いている。
「開場と同時に大高ヨシオ(義雄、よし男ともいう)一座が専属として迎えられ『森の石松』『妻恋道中』『荒神山』などの剣劇で人気を得ていた。この大高一座が出ていた時、幕あいつなぎに美空ひばりが(中略)この舞台を踏んでいる」
この小柴さんも大高ヨシヲはどんな人物だったのかは分からないという。横浜の演劇史を研究している方でもその実態は不明なのである。
これから大高ヨシヲのことを話していく前に、その前提となる基本的なことを紹介しておく。
旧杉田劇場は昭和21年1月1日に、磯子区杉田町2184番地にオープンした劇場で、経営者は高田菊弥という人だった。
写真左は劇場の正面。右の写真はその内部である。昭和21年当時は、大衆芸能などの実演ができる劇場は戦災で壊滅しており、ここぐらいしかなかったということで、結構なスターが来ていた。
ここは5年ほどで会社としての営業は終わってしまうのだが、その後は2年ほど貸館として残っていたようである。
その後、南区弘明寺町144番地に「銀星座」ができた。オープンは旧杉田劇場から3か月ほど遅れた昭和21年3月23日で、経営者は杉山清という人だった。
京急弘明寺駅から鎌倉街道に向かって商店街を歩いていくと、観音橋の手前左側にあった。ここは昭和31年頃に有楽座に変わっている。
写真左は銀星座の場内。旧杉田劇場と似たような構造である。写真右は銀星座がオープンした時の新聞広告。近江二郎劇団がこけら落としで出演していたことが分かる。
残念なのは、「横浜最初の演劇演芸の大衆劇場」と書かれていること。この時には既に旧杉田劇場があったのに。
大高ヨシヲの謎を解くカギが4つある。
その一つが、旧杉田劇場の経営者・高田菊弥の甥だった片山茂さんが残した証言。これは杉田劇場のホームページにも全文を載せている。
次が旧杉田劇場の新聞広告。大高一座のことがここから垣間見える。そして3番目が大高一座のポスター。これは杉田劇場が片山さんから貰ったということで、劇場で保管されている。
最後が杉田劇場に残されている写真。これも謎を解く手掛かりになっている。
片山さんの証言
「昭和21年2月に入り、大高ヨシヲ劇団の出演依頼があり、劇場幹部との話し合いで2月中旬よりの出演が決まりました」
1月にオープンして翌月、大高ヨシヲが売り込みに来たようだ。
「2月中旬、大高ヨシヲ劇団の公演が始まりました。座長大高ヨシヲの男顔の良さと芸の上手さで、たちまち大人気となり、毎日盛況でした」
芸が上手だったことと共に、男顔が良かったと証言している。
「なかには座長大高ヨシヲ様に逢いたい一心で、毎日湘南の藤沢から通った客もおりました」
元京浜急行社員だった方の証言も残っている。
その証言についてはこちら
「長期にわたる公演になるとお客様に飽きられるとのことで、五月に入り、弘明寺銀星座にて公演中の近江二郎劇団と入れ替わり興行をしました」
先ほどお話したとおり、銀星座ではこけら落としで近江二郎一座が出演している。そこと入れ替わったというのである。
「昭和21年9月、私の友人、木曽の青年団で役員連中が横浜に来ました。劇場で大高ヨシヲの公演を観劇して、10月2日、3日の2日間の出演を頼まれ、高田と話し合い決めました」
木曽の青年団は大高ヨシヲ一座の公演を観て感動したようだ。高田菊弥も片山茂さんも木曾の出身だったので、その関係で依頼されたと思われる。
「この2日 、3日とも夜の公演のため、団員は10月1日の夜(横浜から甲州街道~長野塩尻~南木曽のコース)、皆でトラックに乗って出発することにしました」
「途中でトラックの転落事故が発生し、全員負傷し、座長は車の下敷きで即死との知らせで急ぎ現地に行き、近くに須原診療所があり、全員が診療所に入院して治療を受けました」
大高ヨシヲはこの事故で亡くなってしまった。これが彼の身近にいた片山さんの証言である。
つづいて、旧杉田劇場が出した新聞広告について。旧杉田劇場は昭和21年1月1日に開場したことは今までに何回かお話をしてきたが、新聞広告に関してはあまり積極的ではなかったのかどうか分からないが、いちばん最初に出たのが4月10日であった。
大高ヨシヲに関する広告は、生前のこの5つしかない。なんでこんなに少ないのか。もしかしたら先ほどをお話したように、広告なんか出さなくてもお客さんはたくさん来ていたのかもしれない。大高は大人気の役者だったので、やれば必ずお客が来る、というのが一つの想像である。
この中から4月13日の広告について。暁第一劇団 大高ヨシヲ一座がメインだが、その左に特別出演ミソラ楽団と出ている。これが子どもの頃の美空ひばりが舞台に立ったときの広告である。 この下段は演目なのだが、ミソラ楽団というのが合わせて2か所も書かれている。
美空ひばりよりも大事なのは、広告の真ん中の囲みで、「好評四の替十三日初日」と書かれていること。そして右上の方には「四日ごとに狂言差替上演」とある。大高一座は4日間一つのプログラムをやったら、5日目には別の演目をやるということが分かった。
この広告から「家族」「浮名の銀平」「ミソラ楽団」を13日から16日まで公演していたことが分かる。ここから逆算すると、三の替は9日から12日まで。二の替は5日から8日まで。そして最初の公演が4月1日から4日までだったことになる。
右端は10月1日の広告。既にお話したように大高ヨシヲが交通事故で亡くなる日の新聞広告なので、もしかしたら大高はこの広告を見ていたかもしれない。
ここには「森永楽劇団 歌と踊り軽演劇のバラエティ コミック舞踊コンサート」と書かれている。どんな楽劇団だったのかは分からないが、もしかしたら。のちのクレージーキャッツみたいなグループだったのかもしれない。
この案内の頭には「突如一日より三日迄」と書かれている。大高ヨシヲ一座は10月1日から3日までの予定で木曽に出かけたので、その間、旧杉田劇場では穴があいてしまう。そこで急遽、この楽劇団を入れたのかもしれない。
左端には「四日より暁第一劇団大高義雄」と書かれている。大高ヨシヲは10月3日まで木曽で公演を行い、そこからトンボ返りで杉田に戻り、4日から旧杉田劇場でやる計画だったことが分かる。
こちらは大高ヨシヲが亡くなったあとの新聞広告。10月8日の広告では、大高が亡くなったということは一言も書いていない。15日と21日には「大高よし男」追善興行と書かれている。22日の方には「元映画スター中野かほる特別応援出演」と添えられている。この中野かほるは、あとで出てくるので記憶にとどめておいてほしい。
大高ヨシヲの謎を解く3つ目のカギは、杉田劇場に残されている当時のポスター。
この当時も演出家というのがいて、ここでは大江三郎という人だった。
もう1枚のポスター。大高ヨシヲという名前が2か所に書かれている。
『嫌われた伊太郎』の方も、役名をみるとおそらく時代劇だろうと思われる。大高ヨシヲは時代劇をやっていた役者だろうと思われる。
次に大高ヨシヲの謎を解く4つ目のカギである写真。中央の写真が旧杉田劇場の正面。幟が出ているのでこれを解明したら若月昇劇団だということが判明。昭和22年までの広告しか調べていないのでよく分からないが、もしかしたら24年、25年の撮影なのかもしれない。
左の人物は旧杉田劇場のプロデューサー鈴村義二。この人は浅草の生まれで区会議員などもやっていた。また、浅草の興行界でも有名だった人。この鈴村義二を呼んできたのが旧杉田劇場の経営者である高田菊弥だった。
右の写真は旧杉田劇場の入り口前で撮影したもので、髭を生やしているのが高田菊弥である。彼は杉田に来る前に深川で材木商をやっていたという。そんな彼が杉田にやって来て、日本飛行機の下請け会社を経営し、飛行機のプロペラを造っていたそうだ。
そして戦争が終わり、これからどうしようかということになって、工場を改造して旧杉田劇場を立ち上げたのである。
劇場の正面入り口を入ると、右側に喫茶店があり左側には事務所があった。そのまま進むと劇場の客席があり、左側に客席が並んでいた。つまりこの劇場はL字型という構造だった。
杉田劇場に関する写真はいくつか残っているが、大高ヨシヲに関するものはこれだけである。彼の葬儀の写真だ。
ということで、大高ヨシヲの基礎データをまとめてみた。
●昭和21年2月、杉田劇場へ売り込みに来る
●専属劇団の座長となり、2月中旬から公演がスタートする
●3月から公演の幕間に美空一枝(のちの美空ひばり)が歌う
●4日ごとに演目を替えていた(新聞広告より)
●5月、近江二郎一座と入れ替わって弘明寺銀星座で公演する
●6月から8月いっぱいまで杉田劇場での公演がない
●9月から公演が再開し、舞台を見た木曽の青年団から公演依頼が来る
●10月1日、木曽に向けてトラックで横浜を発つ
●10月1日夜、長野県西筑摩郡大桑村須原で事故に遭い、死亡
●10月、追善興行が行われ、元映画スター中野かほるが特別出演する
もう一つの基礎データは座員である。ポスターから分かる座員の名前を並べてみた。
座長:大高ヨシヲ/春日謙二郎(春日謙太郎)/宮田菊弥★/尾崎幸郎/藤川麗子★/高島小夜里/壽山司郎★/長谷川国之助/生島波江★/大島ちどり/三木たかし(タカシ)/大江三郎★/高田孝太郎/小高美智代/高杉マリ子/高宮敏夫
ここに並べたのが座長を含め16名。ほかに端役などもいたであろうから20数名の劇団だったと思われる。★印をつけた役者は、のちのち話題になるひとである。
その中に宮田菊弥という役者がいる。杉田劇場の多根さんが言うには、宮田菊弥と一文字違い。しかも「高」と「宮」は字面も似ている。もしかしたら、これは高田菊弥の芸名なのではないか。
そして演出家としてプログラムに載っていた大江三郎も座員だった。
ここまでが大高ヨシヲの謎を解く4つのカギをもとにして分かってきたことである。
インターネットがすすんでいるので、これを駆使すればすぐ分かるのではないかと思ったが…「大高ヨシヲ」「暁第一劇団」座員の名前で検索しても出てこない。
そもそも大高ヨシヲというのはどういう字を書くのか。ヨシヲなのか、ヨシオなのか、義雄なのか、それともよし男なのか。
その後、うまい検索の仕方がわかった。キーワードを挟むような形でダブルクオーテーションをつけて画像検索をすると、こんなものがヒットした。表示された4つのうち3つは杉田劇場のブログであるが、1つだけ見たことのない画像が出てきた。それをクリックしてみると…
西条昇教授の芸能史研究というブログだった。この方は戦前のプログラムなどをお持ちになっていて、「戦時中の浅草・金龍館での三座競艶大会のパンフと朝鮮楽劇団の予告」という記事の中で、「剣劇系の伏見澄子一座、中野かほる一座、≪ドサのエノケン」こと和田君示一座……云々」ということを書いていた。
しかし、本文には大高の文字はない。で、画像を見たら…
大高よし男が出てきた! 杉田劇場のHPやブログ以外でこの名前を見たのはこれが初めてである。伏見澄子一座の公演に大高よし男と三枡清が客演しているというのだ。このプログラムはのちの調査で分かったのだが、昭和18年3月の浅草金龍館の二の替である。
ここには、もう一人注目したい人がいる。大高ヨシヲの追善興行に出演していた、あの中野かほる。彼女は戦中の伏見澄子一座の舞台で大高と共演していたことが分かった。こういう関係だったからこそ、彼女は大高の追善興行に特別出演していたのだ。
大高の名前が「よし男」だと分かってからは、いろいろな情報が見つかってきた。これは『近代歌舞伎年表』京都編に載っているもの。昭和17年に行われた伏見澄子一座の公演で大高よし男が客演しているのである。
ここで分かったことは、大高の名前は「ヨシヲ」ではなく「よし男」であること、そして伏見澄子となんか関係があるということだった。
さらに『近代歌舞伎年表』京都編を調べていくと、大高よし男は昭和17年の3月4月、そして9月10月に伏見澄子一座の客演として三友劇場の舞台に出ていることが分かってきた。
さらに昭和18年の大高についても『近代歌舞伎年表』で分かってきた。3月1日から31日までは浅草の金龍館で公演をし、そのあとは京都に行って4月、5月と三友劇場の舞台に出ている。
ただ大高の名前が出てくるのはここまで。伏見澄子はこのあとここで、8月から11月まで4か月間の公演を行っているのだが、そこには大高の名前が出てこないので、おそらく彼は伏見澄子一座を離れたと思われる。
大高が出演した5月21日から30日までの公演のプログラム。ここに主役として出演している。『近代歌舞伎年表』では分からなかったのだが、 このプログラムにはもう一つ重要な情報が載っている。殺陣・大高よし男である。彼は役者だけではなく殺陣師もやっていた。それだけ腕のいい役者だったことが、ここから分かる。
大高がしばしば客演していた伏見澄子についての基本情報。
広島県出身の女剣劇役者。大江美智子、不二洋子とともに「女剣劇三羽烏」と称される。殺陣の中で男性の俳優を持ち上げて投げ飛ばすなどの、ダイナミックな演技が持ち味で、キャッチフレーズは「怪力女剣士・伏見澄子」。籠寅興行部専属。
ちなみにあとの二人は「美剣の名花・大江美智子」「剣の女王・不二洋子」である。ここでいう大江美智子は横浜生まれの2代目。伏見澄子はあまり上手くなかったのか、のちに三羽烏から消えてしまう。その後は大江美智子、不二洋子、浅香光代、中野弘子という女剣劇四天王となった。
ちなみに籠寅興行部というのは、今でいうところの吉本興業みたいな芸能プロダクションである。
浅草の金龍館について。浅草六区にあった劇場・映画館である。ここには常盤座、東京倶楽部が写っているが、金龍館は見えない。
金龍館は明治44年に開館し、浅草オペラの拠点としても名高い。関東大震災で壊滅状態になるが、松竹の傘下に入って復興。昭和6年に改築された。「東京倶楽部」「常盤座」「金龍館」の三館が並び建ち、浅草興行街の賑わいの一翼を担う。戦後は「浅草ロキシー映画劇場」「浅草松竹劇場」となったが、平成3年に閉館、解体された。現在、跡地には商業施設「浅草ROX 3G」が建っている。
三友劇場は京都新京極にあった劇場・映画館。明治44年に「三友倶楽部」として開館したが、大正4年に焼失。大正6年、西陣京極にあった寿座を移築し、「三友劇場」として再開場した。昭和20年に閉館。
戦後、洋画ロードショー館「京極東宝劇場」となるが、平成17年閉館。跡地はビジネスホテルになっている。
大高よし男は伏見澄子一座と行動を共にしていたので、この伏見澄子一座を追ってみることに。そこでこんな本を発見した。窪田精という人の書いた『夜明けの時』でる。
窪田精(1921-2004)。芥川賞の候補にもなったことがあるという小説家。山梨県北巨摩郡高根町(現北杜市)に生まれた。高等小学校修了間際に上京し、夜学に通いながら、大衆演劇の世界にはいる。そのなかで、社会の矛盾にめざめ、傾向映画作品の舞台化をめざす劇団わかもの座に参加する。
昭和15年、演劇活動のなかで右翼の襲撃をうけ、そのトラブルのなかで治安警察法違反に問われて、下獄した。戦時中は南洋群島のトラック島に送られ、流刑囚の生活を送った。
この人が大衆演劇の世界にいたときに自伝的小説として書いたのが、この『夜明けの時』であり、その中にこんな一節が出てくる。
「その頃、横浜の伊勢佐木町の敷島座という芝居小屋に、伏見澄子一座という剣劇団が常打ちをしていた。」
伏見澄子は浅草と京都にいたのだが、実は横浜にもいたことがこれで分かった。
昭和13年発行の『パンフレット文藝』東西女剣戟銘々傳。
伏見澄子は、
「籠寅専属となるや、名古屋帝國座に専属第一回出演、十三年の二月には横濱敷島座に出演、前後六ヶ月間大入の出なかったのは、五月の月にたった一日で、毎日八ツ九ツの大入袋(一ツは五銭)が出たといふから、如何に好評であつたかが分らう。」
横浜で大人気だったというのだ。
で、これを整理するとこうなる。昭和17・18年、大高は伏見一座に参加していた。昭和13年、伏見一座は横浜敷島座に出演していた。その13年に大高は伏見一座に参加していたのか? これが次の調査となった。
そこで、昭和13年、14年の横浜貿易新報をすべて調べてみた。芝居関係の記事には演目と配役一覧が出ているのだが、2年間調べても大高よし男はいなかった。
昭和17年1月12日の神奈川新聞。大高は昭和17年3月に京都・三友劇場に伏見一座と出ていたことは既に記してあるが、この広告によって、それより前の同年1月14日から川崎の大勝座で伏見一座に出ていたことが分かった。
さらに調べると、これは1月26日の神奈川新聞で、2月31日から敷島座での公演に出演していることが分かった。ということで、大高よし男は昭和17年の2月には横浜に来たということになる。そして、ここには重要なことが書いてあった。
高杉弥太郎改め大高義男ということは、昭和17年まで大高よし男は「高杉弥太郎」だったのだ!
なぜ、大高よし男は名前を変えたのか。実は、その直前の昭和16年12月6日の神奈川新聞にこんな記事が出ている。
《消える芸名!俳優は皆本名に》という見出しで、次のようなことが書かれているのだ。
「戦時下健全な娯楽文化の向上をめざし今春映画法を実施した内務省では此際映画界の『芸名』を禁止することとなり…」
このあと、同じような内容で演劇法というのを制定しようとしていた。しかし、これが決まれば歌舞伎役者は皆本名になってしまい、市川団十郎も尾上菊五郎も名乗れなくなる。これでは商売にならないということで、業界全体で反対をしてこの計画は流れた。
高杉弥太郎がその意向を組んで大高よし男に改名したのかどうかは分からない。が、もしかしたら大高よし男が本名だったのかもしれないということが推測される。
昭和13年1月から昭和17年1月までの新聞をもう一度、今度は高杉弥太郎の名前を探すために全部チェックしてみた。その結果についてはのちほどお話するが、その前に基礎情報として敷島座についてお話をする。
写真は「復興の横濱」というタイトルが付けられているので、おそらく大正末年もしくは昭和初年の撮影であろう。敷島座は中区賑町2-5、今の伊勢佐木町4-112にあった。明治41年 Mパテー電気館(映画館)、明治42年 敷島館と改名する。昭和6年には演芸場となり、昭和7年に劇場となる。
落語家の桂歌丸は『恩返しー不死鳥ひとり語り』の中でこんなことを書いている。
「今日は敷島座で女剣劇、明日は横浜花月で柳家金語楼劇団(中略)敷島座というのは、伊勢佐木町四丁目にあった、今でいう大衆演劇の劇場です(中略)ここはね、お芝居とお芝居の幕間に、必ず漫才が一本ずつ入ったんです。それが子供心に面白く面白くて、祖母にせがんで何度も連れて行ってもらいましたよ」
歌丸師匠が子どもの頃、敷島座で女剣劇を見たと言っているので、もしかしたら伏見澄子や大高よし男(高杉弥太郎)を直に見ていたかもしれない。
敷島座に出ていた高杉弥太郎を探すため、敷島座で公演された剣劇の興行を年表にしてみた。昭和13年2月から昭和15年2月まで全部調べたが、敷島座に大高よし男(高杉弥太郎)は来ていなかった。
しかし、昭和15年3月から6月の興行では、なんと近江二郎一座が公演をしていたことが分かった。近江二郎一座といえば、片山茂さんの証言にもあったように、「弘明寺銀星座にて公演中の近江二郎劇団と入れ替わり興行をした」という、あの劇団である。
これがその時の新聞記事である(横浜貿易新報:昭和15年2月29日)。
≪十五年振りの近江二郎 敷島座弥生興行≫
との見出しを付けて、久しぶりの近江二郎が一座を引き連れて29日初日で開演、と伝えている。この記事の中に
「高杉弥太郎等の豪華メンバーで…」
という風に彼の名前が出ていた。
杉田劇場と銀星座に出演していた近江二郎一座に大高よし男がいたということなのである。
この記事の先には配役一覧が載っている。これを見ると高杉弥太郎は近江二郎と大山二郎に次いで3番目にランクされている。ということは、かなりの役者だったことがうかがえる。
そしてもう一人。旧杉田劇場のポスターに書かれていた演出家の大江三郎である。ということで、大江三郎も近江二郎一座のメンバーであることが分かった。
今まで判明していることをまとめると、
昭和21年5月 大高と近江は入れ替り興行をした
→昭和15年3月 大高は近江二郎一座に参加していた
→大高よし男と近江二郎は戦前からの知り合いだった
ということになり、ここからは近江二郎一座を調査することになる。
大高よし男は昭和17、18年には伏見澄子一座と行動を共にしていた(青色部分)。そして昭和15、16年は近江二郎一座にいた(紫色部分)。15年の9月から12月までは記録が残っていないけど、近江一座と一緒にいたと考えるのが自然。
昭和16年9月3日付神奈川県新聞に出た敷島座での松園桃子一座の記事。ここに高杉弥太郎が出演したことが書いてある。このあと松園桃子一座は年末まで続くのだが、高杉弥太郎は名前が出てこない。
そんな中、昭和16年11月24日の神奈川県新聞に、≪先代萩と忠臣蔵 敷島座・歌舞伎座評≫と題して劇評が掲載された。ここに高杉弥太郎の名前が出てくる。ということは、おそらく9月から12月まで高杉弥太郎は松園桃子一座と一緒にいたのだろうと思われる。
翌、昭和17年6月22日の神奈川新聞(写真右)。この時は既に高杉弥太郎から大高よし男に改名されているのだが、こんな記事が出た。川崎の大勝座の舞台に中野かほる、海江田譲二といった映画スターと一緒に出演しているのだ。
このあと一座は名古屋に移動して同じ演目で公演をしている。(写真左)中野かほるは当時のスターであったが、大高はそんな彼女と少なくとも2回は共演している。ということは、大高は結構な役者だったことが分かる。
中野かほるは明治45年、神戸市の生まれ。昭和7年、東活映画社に入社し「丸の内お酒落模様」でデビュー。同年9月、日活、新興キネマの引き抜き合戦で騒動となるが、紆余曲折あって昭和8年、新興キネマに入社。昭和9年に日活多摩川、昭和11年にP.C.L.と転じ、昭和12年には日活京都に入社して時代劇で活躍。昭和14年、大都映画に移り近衛十四郎の「渦巻く浮雲城」前後篇などに出演。昭和16年、大都映画が大映に吸収されたのをきっかけに退社。その後、しばらく芸能界から離れていたが、戦後、昭和29年に東映入社、昭和37年の「三百六十五夜」を最後に引退した。(キネマ旬報『日本映画俳優全集・女優編』より)
彼女は昭和16年にいったん引退し芸能界から離れていたとあるが、昭和21年10月の大高よし男追善興行に特別出演している。中野かほるは何故、この興行に参加したのか、これはまだ謎のままである。
ここで、大高よし男の軌跡を整理してみる。昭和15年から16年にかけては近江二郎一座と一緒にいた。16年9月から年末までは松園桃子一座と、そして17年1月から18年5月までは主に伏見澄子一座と行動を共にしていた。
17年12月に松園桃子一座に再び出演している記録がある。それによると、「歌う若殿様」という芝居であるが、記録上はミュージカルに大高が出たと。つまり、大高よし男は芝居も剣もうまくて、さらに歌も歌っていたようである。
昭和18年6月から終戦まで、大高に関する記録はまったく見当たらない。もしかした出征したのかもしれない。
ここで近江二郎に戻る。
明治26年、広島県芦品郡(現・福山市)出身。川上音二郎の川上俳優学校と藤沢浅二郎の東京俳優学校を経て、新派の舞台に立つ。その後、大正15年に酒井淳之助、遠山満とともに「剣戟合同」一座の興行を始める。
昭和5年、アメリカに渡り、西海岸の各地およびハワイで8ヶ月間の巡業を成功させる。帰国後は「グロテスク劇場」の旗を掲げ一世を風靡した。
長く横浜・井土ヶ谷に住み、伊勢佐木町の喜楽座、敷島座などで公演したほか、戦後は弘明寺銀星座や杉田劇場でも活躍した。昭和24年5月没。大正・昭和の横浜を代表する俳優のひとりである。
大正9年1月30日付横浜貿易新報に載った広告。これ以前から端役で出演していたのかもしれないが、こうして名前が出たのはこれが最初と思われる。
近江二郎は大正12年2月に横浜喜楽座を去るが、大正15年に「剣劇大合同」興行で喜楽座に再登場する。9月1日より遠山満一座、近江二郎一党、酒井淳之助一派によるチャンバラ劇が10月まで続いた。
近江二郎一座は昭和5年11月からアメリカ巡業に出かけるのだが、その前に平沼の由村座で壮行会ではないだろうが、景気づけに一つ公演をということで9月1日に興行があった。
このあと、座員総勢20数名で昭和5年10月17日に横浜港を出発し、10月30日にサンフランシスコに到着した。巡業は11月1日より始まった。
昭和5年といえば世界大恐慌の1年後。大変な時期に渡米したのである。
これは昭和5年10月26日に出た邦字新聞『日米』の広告。近江一座がサンフランシスコに到着するのが30日なので、それよりも4日前に出た新聞である。
これは近江一座が着いた翌日の邦字新聞『日米』。下段に上演日割が掲載されているが、11月1日から翌年の1月1日まで連日公演する予定が載っている。
アメリカ巡業中の写真。
後列左:近江二郎
前列左:深山百合子
後列右:戸田史郎
(近江資朗)
前列右:不明
近江二郎一座、戦後は銀星座にたびたび出ていた。昭和21年3月23日の神奈川新聞では「ヨコハマの人気者 近江二郎劇団」と書かれている。当時はどれだけ人気があったのかが分かる。
近江二郎と大高よし男とは、昭和16年の春に別々の行動になっていく。そして、近江二郎は浅草松竹などで不二洋子に協力をする。一方、大高よし男は京都三友劇場などで伏見澄子に協力をしていく。この二人が並ぶとなると、大江美智子を含めた女剣劇三羽烏が見えてくる。
この3人が所属していたのが籠寅興行部。そこで力のある近江二郎、優秀な役者の大高よし男に不二洋子と伏見澄子のバックアップをさせて、それぞれの劇団や女剣劇三羽烏を盛り上げようと考えていたのではないか。そんな営業戦略も見えてくる。
前に紹介した本田靖春の本『戦後〜美空ひばりとその時代〜』の中に気になることが書いてある。
≪(杉田劇場の経営者)高田は若いころから芝居好きで、戦前は浅草松竹座に出入りして、役者の後援会長を引き受けたりしていた。だからその方面には顔がある≫
ということから、高田菊弥が近江二郎の後援会長だった可能性があるのではないか?
これは昭和15年12月29日の横浜貿易新報。昭和16年横浜敷島座の初春興行の案内が出ている。ここに高杉弥太郎が載っているのだが、そのほかに高田光弥という役者がいる。
前半で紹介した旧杉田劇場のポスターの中に宮田菊弥という役者の名前があり、これは経営者の高田菊弥ではないのかという疑問があったが、こちらも高田光弥の「光」を「菊」に替えると高田菊弥になる。(子音はどちらもiとuである)
もしかしたら、この頃から高田菊弥は舞台に立っていたのかもしれない。それも近江二郎一座とともに。
昭和21年の1月から3月の間の神奈川新聞では、杉田劇場の記事を発見できなかったが、読売新聞の昭和21年1月22日付の広告にこんなものが出ていた。片山明彦他かもしか座総出演と書かれており、次郎物語の宣伝であるが、その横にこんなことが添えられている。
≪26日より10日間 近江二郎一座≫
と書かれているのだ。ということは昭和21年1月26日から2月4日まで、近江二郎一座が旧杉田劇場に来ていたのである。銀星座に出演するよりも前に、彼らは旧杉田劇場に出演していたのだった。
ここで旧杉田劇場の従業員だった片山茂さんの証言を思い出したい。
≪昭和21年2月に入り、大高ヨシヲ劇団の出演依頼があり、劇場幹部との話し合いで2月中旬よりの出演が決まりました≫
この時、旧杉田劇場では近江二郎一座が興行をしていた。このことから大高よし男が杉田劇場に出演依頼をした際、近江二郎が横にいた可能性は高いことになる。
ということは、旧杉田劇場に大高を紹介したのは近江二郎だったのではないかと思われる。
この3人の関係を整理すると、
高田菊弥は戦前から近江二郎をよく知っていた?
→大高よし男は役者としての仕事を探していた?
→近江二郎が大高よし男を高田に推薦した?
→大高よし男が杉田劇場専属劇団の座長になる!
このことは十分考えられることだが、今の段階では仮説である。
もう一つ。昭和21年の6月から8月まで旧杉田劇場から大高が消えていること。近江二郎一座は5月一杯で銀星座での興行を終えて、7月、8月と名古屋で公演をしている。ということは、大高は恩義のある近江に同行して、一緒に巡業に行ったのではないか? だから6月から8月まで旧杉田劇場に出ていない、というのも今の段階では仮説である。
大高よし男の事故について。最初に紹介した本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』には長野で起こした事故について書いてあるのだが、そこに「この事故は新聞に一行ものらなかった」と付け加えている。しかし、読売新聞の神奈川版に掲載されていた(写真左)。
≪重軽傷十名 慰問劇団トラック長野で墜落≫
との見出しを付けてこんな記事を載せている。(昭和21年10月3日付)
「一日夜九時ごろ横浜市木曽木滝頭町岩瀬三八四赤沢勇(28)君がトラックに農村慰問劇団員など二十四名を乗せ長野県西筑摩郡大桑村須原地内で運転を誤り数間余の崖下に墜落、重軽傷者十名を出した」【注:木曽木は磯子区の誤り】
さらに信濃毎日新聞でも(昭和21年10月3日付)、
「一日午後九時頃東京向島東亜合資所有のトラックへ二十四名を便乗横浜市滝頭町赤坂勇君(28)君が運転西筑吾妻地傍を進行中六間余りの崖下に転落し乗っていた長四郎さんほか十一名の重軽傷を出した地許清水医院で手当中」
もっと詳細に書いているのが昭和21年10月3日付読売新聞長野版。
「一日夜九時ごろ横浜市木曽木滝頭町岩瀬三八四赤沢勇(28)君は、トラック(東京都向島区東亜合資会社所有)に某劇団員二十一名その他三名を乗せ、西筑摩郡大桑村須原から同郡吾妻村に向う途中、運転を誤り道路から数間下に転落。乗客長四郎(35※?)さんほか三名は骨折、脱臼一名軽傷六名を出した。須原清水医院に収容手当中」【注:木曽木は磯子区の誤り】
以上3つの記事には、乗客が亡くなったとは書いていない。もしかしたら大高よし男は生きているのかもしれない、とも思えてしまう。
大高よし男の葬儀の写真。ここはどこなのか。右上の提灯に着目すると、「世音」という文字が見える。ここから世音→観世音→弘明寺観音と類推できる。
そこで弘明寺観音に行って調べてきた。住職や事務室の方などに聞いてみたら、ここは確かに弘明寺であるとのことだった。しかし、このようなお坊さんはいなかったとも。そうすると、これは誰なのか。謎は残ったままである。
葬儀の写真に写っている人物のうち、遺骨を持っているのが大江三郎。写真の裏書を見ると支配人と書いてあるので、一座のマネージャーだったようだ。頭に白いものをまいているが、もしかしたら転落事故でけがをしており、そのための包帯なのかもしれない。
学生服を着た子供の後ろに立っている髭の男性。これは高田菊弥と思われる。大江三郎とお坊さんの間にいる女性は、もしかしたら中野かほるではないだろうか。
というのも大高よし男追善興行は昭和21年10月17日〜20日と10月22日(中野かほる出演)に行われている。(注:21日には興行がない)
この写真の女性が中野かほるだとすると、葬儀は10月21日に行われたと考えられる。
真ん中で位牌を持っている子どもは9歳か10歳くらいに見える。もし遺児ならば、大高は30歳〜40歳で他界したと仮定できそう。とすると、大高の生年は明治39年から大正5年までの間と想定される。
中野かほるは明治45年の生まれで、大高とほぼ同世代である。かつて二人が共演したこともあって参列したのではないか。
大高一座の座員は誰だったのか。星印を付けた人たちについて調べてみる。演劇史を研究している小柴俊雄さんが『郷土よこはま』115号の中で日吉劇について論文を書かれている。
「日吉劇とは、横浜歌舞伎座で行われた日吉良太郎一座による公演。昭和13年6月4日に第一回公演の幕を開け、以来、昭和20年1月、太平洋戦争の戦局が急迫して来て、享楽追放で公演ができなくなるまで、足かけ8年にわたり360回の公演を行った」
この劇団は大変な人気を博したのだが、昭和20年1月で事実上、ここで解散になってしまう。
これは小柴さんが論文の中で載せている日吉劇のメンバーである。
こちらは大高一座のメンバー。赤字にした役者が日吉劇にもいた。
これらをまとめると、こうなる。日吉劇のメンバーだった役者、近江二郎一座の文芸部員だったと思われる大江三郎、劇場主の高田菊弥かもしれない宮田菊弥、そして近江二郎と戦前からの付き合いがあった大高よし男。
大高一座は日吉劇団と近江一座の両方を併せ持ったハイブリット劇団だったと言えるかもしれない。
この講座の最初に大高よし男を巡る謎を5つ提示したが、今回の調査で判明したことは以下のとおりとなる。
1.出身地と生年は?
不明(明治39年〜大正5年頃に生まれたか?)
2.どんな役者だったのか?(顔は?)
技量も人気もある剣劇役者(顔は不明)
→その後、顔が判明した!【大進展!】大高よし男の写真!
3.どこに住んでいたのか?
不明(弘明寺あたりか?)
4.杉田劇場に来るまで何をしていたのか?
横浜 浅草 京都 名古屋などで舞台出演
5.なぜ杉田劇場に来たのか?
近江二郎が高田菊弥に推薦した?
ということで、大高ヨシヲを探す旅はつづく
詳しくは講師・井上学さんのブログで。【了】
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