第65回いそご文化資源発掘隊 暗渠探索の愉しみ パート3
安藤川・芦名川
(講座編:2024年5月17日開催/探索編:5月22日・23日開催)
開 催 日/【講座編】2024年5月17日(金)
【探索編】 同 5月22日(水)・23日(木)
開催時間/【講座編】14:00~16:00
【探索編】13:00~15:30
会 場/【講座編】杉田劇場4階 コスモス
(リハーサル室)
参 加 者/【講座編】24名
【探索編】20名(2日間のべ)
講 師/ 多根雄一(元杉田劇場職員/暗渠呑ミスト)
参 加 費/【講座編】700円
【探索編】500円
渠(きょ)とは溝とか堀割という意味である。たとえば船渠、これは船の建造や修理をするドックのことで、船を格納する巨大な溝なのでこう名付けられた。
さて、講座のテーマである暗渠とは何か。狭義では蓋をした川や水路をいうが、土木事務所によると地中の管渠すべてが暗渠らしいが、ここでは川や水路の跡を暗渠とする。地下に水路や下水の流れがない、完全に埋め立てられた跡も含む。
暗渠化された理由は川の環境変化、衛生対策、豪雨の浸水対策などである。昭和34年から始まった根岸湾の埋め立てにより、埋立地に下水処理場が完成したことによって下水道が普及したこともその理由の一つだ。
芦名川と安藤川の歴史を知るには、明治から大正にかけて行われた昔の埋立まで遡る必要がある。かつて、磯子村から森村や杉田村へ行くには大変な苦労があった。途中は屏風を立てたような断崖が迫る地形で、海沿いの平坦な道はなく、山道を登って森や杉田に行っていた。
上は明治15年測量の迅速測図。赤枠で囲んだエリアは浜から間坂にかけての部分であるが、ここは断崖が海まで迫り交通の難所だった。
それを解消するために明治から大正にかけて行われた海の埋立によって、海岸沿いの道ができ、同時に橋が架けられ無名だった川にも名称がついた。
左の地図は赤で囲んだ迅速測図を拡大したもの。内陸に向かって二つの谷戸が描かれている。表示はないが上が芦名川の流れる山田谷戸で、下が安藤川の流れる山王谷戸である。
右の写真は戦後間もなくに撮影された空中写真で、谷戸の姿をはっきりと見ることができる。芦名川の河口には、まだ埋め立てられていない部分が写っている。
さらに、迅速測図を拡大してみた。すると、等高線の密集した断崖に破線で描かれている部分が見えてきた。当時は浜から森、杉田方面に行くには海沿いに断崖が迫り、そこを避けて山越えをしなければならなかった。その不便さを解消するため、ここにトンネルが掘られたのである。
トンネルを抜けて海岸伝いに歩いて森や杉田へ行けるようにしたのは、浜の山川吉左衛門だった。
迅速測図の欄外にこのトンネルのイラストが描かれている。これによって、当時の山川トンネルの規模が分かる。山側の入口の標高は約15m。トンネルの長さは約38mで、出た所の標高は約8mだったことが分かる。
トンネルは高さ36mの丘をくり抜いていた。現在、この丘はなくなっており、トンネル部分が坂道として残っている。
さて、この山川吉左衛門がトンネルを掘ったのはいつだったのか。史料によってその時期が異なる。横浜市港湾局が発行した『横浜の埋立』によると明治11年に完成とある。これを参照したのかもしれない『磯子の史話』(磯子区役所)も明治11年に掘ったとしている。明治44年3月10日の『横浜貿易新報』では明治14年に掘削と書いているが、30年後の記事なので、もしかしたら間違っているのかも。
山川氏は大正7年の市会議員選挙で当選していた。市会議員には葦名金之助、安藤安蔵という埋立てに関わった人物もいる。
山川トンネルは手掘りで掘ったことで、トンネル内は補強もせずそのままの状態だったと思われる。嵐のときには海側の出入り口から海水が入り込み、数年で使用できなくなってしまったと言われている。
これに代えて造られたのが神奈川県施工の間坂トンネルである。竣工年は『磯子の史話』によると明治17年とされているが、郷土史家の葛城峻さんの『磯子郷土史ネットワーク』によると、工事開始が明治19年で竣工したのは明治22年という。後者は横浜開港資料館の研究員の話が出典となっているので、おそらくこちらが正しいのだろう。
旧道から間坂トンネルをくぐり、森の海岸に出て杉田方面に行くというルートが完成したが、このトンネルも暗くて危ないということから、やはり海岸沿いに道を造る必要性が高まってきた。
そこで、磯子の海岸を埋め立てようという人たちが現れる。『磯子の史話』などを読むと、芦名金之助が埋立を計画し、東京の安藤庄太郎が資金援助した、という話が出てくるのだが、はたして本当にそうだったのだろうか。
明治41年3月10日の横浜貿易新報に「磯子埋立地開通式」との見出しを付けて、以下のような記事が出た。
土木請負業安藤庄太郎氏は数年前磯子隧道所在地山林数町歩を買取りたる際一時、同隧道の拡鑿を企画せしも寧ろ東端の山を削りて屏風浦海面の埋立を為すにしかずと心付きその筋の許可を得て去る39年中より埋立に着手しこのほど既に約三万坪を得たるを以て従来交通に不便を感ぜし隧道に代えて新たに道路敷地延長約6町ほどを寄付することとなり茲に既通の富岡新道と共に横浜より金沢に達する街道の難所を断ち交通上に至便を与ふる…(略)…右披露の為め8日午後3時より同埋立地に於いて開通式を挙行し起業者安藤氏の式辞に次いで…
磯子の海岸を埋め立てて、得られた土地の一部を道路用地として神奈川県に寄付をしたというのだ。ここには葦名金之助の名は出てこない。
磯子の埋立に関する記事は、大正3年7月28日付の横浜貿易新報にも掲載された。しかし、明治41年3月10日の横浜貿易新報は今を伝えるニュースであったのに対し、こちらは磯子の名勝を伝える特集の中で葦名金之助を紹介するという形を取っている。それによると……
明治36年2月、間坂山から根岸湾を眺める人がいて、土地が狭く、道が険しいことを嘆いている。彼は海の深さや土質の硬軟を検分し破顔一笑、飄然として去れりと、まるで講談のような文章で記事が書かれている。
これが埋立の創業者・葦名金之助だというのである。彼は根岸の「近栄洋品店」主人の飯島栄太郎や東京安藤組主人の安藤庄太郎らの協力を得て出願し、明治37年に埋立許可を得たとある。
これは大正6年に発行された『横浜社会辞彙』に載った葦名金之助の項目。それによると…
明治元年5月18日、東京の千住で岩田太右衛門の4男として出生。済生学舎で医学を専攻した。 実家は畳屋薬の本舗だったので、家業を広告などで宣伝しようと考えるも父兄の反対に遭い家を出る。
明治33年頃、「近栄」主人の飯島栄助が所有する磯子村の土地を譲り受け、単独で埋立に着手し一年で完成させる。これが磯子町埋立の嚆矢である。
翌年、知人の建築請負人・安藤庄太郎と共同で磯子海岸の埋立を計画。第1回は22,700坪、第2回は12,000坪、この埋立には5年かかった。
第3回は明治41年に単独で33,800坪の埋立に着手し、明治44年に完成。山を開き道を造り、橋梁を架設。
大正3年の貿易新報では、≪安藤庄太郎の協力を得て≫、ということになっているが、こちらでは≪安藤庄太郎と共同で≫とされている。
大正9年から書かれ始めた『横浜市史稿』では、明治32年に安藤庄太郎と葦名金之助が出願とある。二人が連名で埋立て計画を出したというのだ。場所は磯子浜及び間坂で面積は111,300坪、大正3年に竣工とされている。
また、昭和26年発行の『横浜歴史年表』には、明治32年に安藤庄太郎と葦名金之助が磯子浜及び間坂地先の海岸埋立に着手し、大正3年に竣工したと書かれている。
『横浜今昔』(昭和32年)によると、埋立は明治40年ごろに始められ、大正2年に完成した。埋め立てた場所は電車道と旧道の別れ道から森まで…(略)…埋立工事は東京の安藤組によって完成されたものだが、その関係で埋立地は安藤氏個人の土地が多かった。安藤組の下請けをした人に横浜の葦名金之助氏がいる。とあり葦名氏は安藤組の下請けだったという。
『横浜市会史第2巻』 (昭和58年)によると、明治32年に安藤庄太郎と葦名金之助が出願し大正3年に完成。面積は111,300坪で埋立地は磯子町字間坂及び浜に編入したとある。
こうして各種史料を見ていくと、まったく違うことが書かれていて、何が本当なのか分からなくなる。
これまで見てきた史料には具体的な裏付けがなかったが、ここにきてこんなものが出てきた。埋立に関する神奈川県が発行した命令書だ。
安藤橋の親柱近くにある食事処「ひぜんや」(閉店)に置いてあった『Roots』という資料の中にこれがあったのである。著者は安藤安則氏。安藤庄太郎の関係者で、店内には根岸湾と埋立前の間坂付近が描かれた地図が掲示されていた。
この史料によると、安藤庄太郎が明治39年8月29日付で願いを出した屏風浦村地先の埋立を許可したので、受書を差し出すようにということが書かれている。これにより、埋立ての許可願を出したのは安藤庄太郎であり、場所は間坂地先の7,440坪であることが確認できた。
さらに先を読むと≪埋立工事は着手より満三か年以内の竣工≫
≪道路・物揚げ場は官有地に他は民有地に≫という条件も分かった。
安藤安則氏の本書に書かれていることをまとめると、こうなる。
明治39年に安藤庄太郎が埋立を願い出て、明治40年に神奈川県が7,440坪の埋立を許可した。安藤庄太郎の息子の徳之助が埋立の協力者として芦名金之助を得て、安藤の名代として芦名が地元を説得して完成させたという。
『根岸湾の埋立て』(塙惠弘)には県知事の許可書に基づいた記載がある。内容は別の工区であるが構成は同じ。それによると…
明治38年6月10日に出された埋立免許命令書の記述があり、明治37年11月24日に安藤庄太郎が出願した埋立を許可するとある。場所は間坂地先の海面18,335坪だ。条件は安藤氏が紹介した埋立地と同じだ。
こちらではさらに、橋梁の架設に関する許可も紹介している。安藤庄太郎が明治45年7月25日付で出願した浜埋立地内の橋梁架設工事を神奈川県が許可したのは大正2年1月16日だった。
浜埋立地というから、この橋梁は芦名橋のことと思われる。神奈川県の出した指令書の最後にはこんな条件が書かれている。
明治38年6月10日付及明治41年10月1日付及明治44年11月11日付提出請書ニ基キ道路橋梁工事竣功ノ上ハ同用地ニ対シ上地ノ手続ヲ為スベシ
この請書をどうとらえるか解釈が分かれるかもしれない。3つの請書が書かれているが、これは橋梁の架設ではなく埋立の請書だろう。ということは、埋立工事は3つに分けて行われたのか。
横浜市港湾局臨海開発部が発行した『横浜の埋立』の巻末に埋立の年表とそれに対応する地図が掲載されている。安藤庄太郎が完成させた埋立地が、このE03-1からE03-3の三か所である。
その詳しい内容が一覧表に載っている。出典の違いによって赤枠と青枠に分かれており、赤枠は『横浜市会史』と『横浜市史稿』に基づき、青枠は横浜市港湾局の『台帳』に基づいている。ここは、横浜市の台帳に記載されている情報を採用したいと思う。したがって、磯子町地先の埋立工事は安藤庄太郎が中心となって行ったと考えていいだろう。
埋立前後の状況を地図で比較してみる。左は明治39年測図で八幡橋から森、杉田方面に行く道は旧道しかない。右の大正10年の測図では、赤枠で囲った部分が埋立地である。この中に新しく造られた県道(現在の国道16号線)が描かれている。
左は現在の地図。青いラインが山田谷戸を流れている芦名川で、黄色いラインが山王谷戸を流れている安藤川である。薄い青で塗ったエリアは旧磯子花街。一時、磯子二業組合の会長をしていたのが葦名金之助だったのは、埋立と関係があるのだろうか。
このエリアのNTTのケーブル名は、ずばり埋地だ。
さて、ここからは暗渠化された芦名川の痕跡を探してみる。芦名橋公園から根岸湾まではこのようなルートを流れている(国土地理院の地図)。
JR根岸線と高速道路の間に磯子ポンプ場があり、芦名川はこの中にいったん入ってから海に向かうのだが、この先は道路と並行して開渠になっている。しかし、グーグルマップのストリートビューでは川があることが見えるのだが、地図上は示されていない。
ここは芦名川の河口。最後の流出口に橋の親柱が残っている。そこには昭和37年11月竣功の銘板が張り付いている。
河口から遡ると、まず現れるのが「あしなよんのはし」。漢字のプレートがないので正確なことは分からないが、おそらく「芦名四の橋」という橋名板がついていたと思われる。昭和37年11月竣功である。
もう少し遡ると芦名三の橋がある。橋を渡るとほぼ工場地帯。こちらは平仮名の橋名板が見当たらない。
芦名二の橋は川名、漢字と平仮名の橋名板、そして竣功年と、橋に必須の4枚が揃っている。これによって、この川が芦名川であることが分かる。
さらに遡ると現れたのは新芦名川橋。橋名板を見るとかなり新しい。橋の反対側を見たいが、幹線道路があって向こうに渡れないので残念。
幹線道路を越えて行くと、開渠は根岸線のガード付近まで続いている。
産業道路の向こう側に芦名橋公園が見える。ここは芦名川の中で最も川幅が広い場所だった。
芦名橋公園の柵は昔の親柱を再利用していると言われているが、果たしてそうなのか。真ん中の欄干部分が古そうなのに対し、両端にある親柱は材質からして新しそう。
芦名橋公園と河口の間は講座編で写真のように紹介だけであったが、探索編では芦名橋公園から上流を歩くことに。行きは浜側の道を歩いた。
屈曲しながら少しづつ坂になっている道をすすんで行くと、右側に登っていく階段が出てきた。その下にはハマのマークが付いた境界杭が二つ(右上写真)。この杭と杭の間が横浜市の土地なのだろうか。先がどうなっているのか見に行くと左側に墓地があった。 暗渠探索をしていると、よく墓地に出会う。
さらに屈曲して緩い坂道をすすんで行くと、左側からしみ出す水を発見。下見で来た時も出ていたので、ここは常時水が流れているようだ。
しばらく歩いていくと分岐点の先に長屋門のある家が現れた。地元の旧家なのだろう。
長屋門のある家の前を左に道なりに進んで行くと、途中、民家の擁壁にこんな石積みが現れた(左上写真)。何となく昔の護岸のように見える。その先には常にしみ出る水があった(写真右上)。水が豊富なエリアのようだ。
坂を上り詰めた所に到着すると、こんな水場があった(左下写真)。その奥には水路も見られたが、先は谷戸の奥ということで、ここから引き返す。
長屋門のある家に戻ったら、分岐点のもう一方の道を進む。すると、同じような石積みの擁壁が続いているのを発見。高さはそれほどない。別の家にもあるということは、これは芦名川の護岸だったのではないかと思われる。
民家への出入りは新しいコンクリートの階段になっているが、現在ゴミ集積所になっている階段は古い石積み階段のままだ。
さらに緩い坂道をすすむ。この谷戸最後のお店が現れた。「宮戸屋酒店」である。ここで先は二股に分かれているので、まず右の道に入ってみる(右上写真)。
すると、あちこちで水がしみ出ているところに出くわす。
この先で、とうとう開渠が出てきた(左右写真)。これが暗渠化された芦名川の上流部である。
さらにその先にも水がしみ出ている場所がある。右下写真には道路でもない民地でもない、不思議な細い土地が続いているが、もしかしたらここは暗渠なのか。
ここが山田谷戸のどん詰まりのようだ。階段の先はもう汐見台である(左上写真)。
NTTのケーブル名に山田谷戸を発見。ここから引き返し…
先ほど通過した「宮戸屋酒店」まで戻り、二股分岐の左側の道をすすむ。
この先は汐見台。こちら側の支流も汐見台から流れ出しているようだ。
芦名川と同じように屈曲した細い路地をすすんで行くと、右側に日枝大神に向かうさらに細い路地があった。ここで見たのは、芦名川と同じような昔の護岸らしき石積み。
一応、山田谷戸の奥まで行ったので、ここで折り返し、遡ってきた道を戻る。その途中でもう一つのルートを下ることに。
長屋門のある家に戻る手前を右に折れて細い道に入る。土地宝典で確認すると、このルートも昔は水路だったようである。
しばらく行くとこんな段差が現れた。写真は下流側から撮影。したがって水は奥から手前に流れていたはず。滝のような段差があったのかもしれない。
探索編の参加者はこのまま16号線に向かい、安藤橋跡を目指した。
間坂に安藤橋の親柱が2本残っている。安藤川暗渠の探索はここから遡行するのだが、その前に橋跡の確認をする。
まず、講座編でも語ったことだが、安藤橋が架けられるもととなった間坂の埋立はいつできたのかを再度確認しておこう。
『横浜市史稿』政治編3 大正3年竣工
『横浜歴史年表』大正3年
『横浜今昔』大正2年に完成
『横浜市会史第2巻』大正3年に完成
『磯子の史話』大正3年に完成
『横浜貿易新報(大正3年7月28日)』大正元年に竣工
『横浜貿易新報 (明治44年3月10日)』 明治41年
『横浜社会辞彙』 明治44年に完成 橋梁を架設
『Roots』(安藤安則) 明治41年 磯子・杉田間の新道完成
『横浜の埋立』 竣工年不明
史料によって微妙な違いがあるが、おおむね大正3年頃に埋立てが完成としている。
しかし、現存する安藤橋の親柱には大正十四年と彫られている。大正の初めに埋立てが完成し道路もできているのに、橋の架設が大正14年というのはおかしい。もしかしたら、これは震災復興橋なのではないか。
一本の親柱には安藤橋の由来が貼り付けられており、内容からこれを作成したのは安藤庄太郎の子孫であることが分かる。
それによると、明治32年に埋立事業に着手し、完成は大正13年。総面積11万坪余り、とある。
これはおかしいと思い『横浜復興誌』第2編を調べてみた。すると、やっぱり安藤橋は震災復興橋だった。もちろん芦名橋も同じだ。これらを施工したのは横浜市電気局である。市電が走る道路だったので電気局が工事したと思われる。
つまり、芦名橋も安藤橋も当初の親柱ではなく、のちに造られた橋の親柱なのだった。
ここには磯子区役所が設置した解説板もある。ここでは断定的なことを書いていない。これを読むと…
明治の終わりから大正にかけて埋め立てた。それによって県道(現在の国道16号)が整備され、県道を横切る水路をまたぐ橋を架橋した、とある。その後、昭和30年代の埋立時に水路は暗渠化されたとある。
安藤橋から海側に向かう路地。これが暗渠化された安藤川の河口部分である。
その突き当りに親柱が2本移設されている。もともとここにあった物ではなく、ここまで川が流れていたことを示すために建てたのだろう。真ん中に区役所が設置した案内板がある。
国道16号線沿いにある安藤橋親柱から国道を渡り住宅地の中に入っていく。いかにも、昔は水路だったという雰囲気である。
旧道を渡り細い路地を内陸部に向けて歩いていく。すると、こんな石積みが現れた。芦名川跡で見たあの護岸跡と同じものである。
この近くに立っている電柱に付けられたNTTのケーブル名を示すプレート。やはりこの一帯は山王谷戸なのだ。
芦名川と同じように屈曲した細い路地をすすんで行くと、右側に日枝大神に向かうさらに細い路地があった。ここで見たのは、芦名川と同じような昔の護岸らしき石積み。
本筋に戻って少し行ったところ。傾斜のある石積みは、かつての護岸ぽい。その近くで2方向から水の流れの音が聞こえてくる。グレーチングの下に耳を近づけると、かなり激しい水の音が聞こえた。
さらに進んで行くと右側にこんな階段が現れた、登るとすぐに二股が現れた(左上写真)。右の坂は上のマンション群に続く。左の階段を登っていくと、やはり墓地があった。
暗渠探索をしていくと、必ずと言ってもいいほど墓地に出会うのだ。
石鹸で有名な磯子の堤家の名前を墓地で確認したあとは、さらに緩い坂道をすすむ。すると、左右のところどころで、こんな細長いスペースを見ることができる。これは水路跡に違いない。
芦名川でみた風景と重なる。やはり、これも旧安藤川の護岸だろう。
これは昭和63年の磯子区明細地図である。安藤川流路の跡を水色で塗ってみた。すると、その沿道に石積みのマークがたくさんあることに気がついた。今まで見てきた石積みはこれなのであろう。
安藤川をさらに遡って行く。すると本流の左右からこんな水路跡が出てくる(上左右写真)。
ゴミ集積所の傍ではものすごい音を立てて水が流れている様子を確認できた。
こういう土手が現れてくると源流は近い。この斜面を見ると蕗の葉がたくさん出ていた。これも暗渠でよくみられる特徴である。
谷戸のかなり奥まで来たら、左側にこんな水路があった。かなり急である。
たまたま近くに古老がいたので聞いてみたら、ここは急な崖地だったのだが、昔、このような急傾斜を削って上を住宅地にしたということだった。
暗渠探索は運がいいとこういう話が聞ける。
山王谷戸の奥は汐見台だった。安藤川の源流はこの辺らしい。
ということで、今回対象となった2本の川のまとめ。
芦名川も安藤川も埋立前は無名の川だった。やがて磯子地先の埋立によって県道(現在の国道16号線)完成。これによって道路が開通し橋が架けられた。
この橋名に二人の名をつけると、川の名称も芦名川と安藤川になった。二つの川の源流は汐見台で、湧出した水は山田谷戸と山王谷戸を流れて行った。
1807年に出された佐藤一斎の『杉田村観梅記』に、江戸から杉田までのルートが掲載されている。それは大岡村~赤穂山~森村~中原村~杉田村という経路で、この赤穂山を越えるのが最も近道だという。
大岡村と森村の間といえば、現在の汐見台だ。そこで思い出すのが赤穂原である。大正時代の地図情報「土地宝典」にも赤穂原と表記されているが、江戸時代には赤穂山だったことが、『杉田村観梅記』から判明した。
おそらく昔の汐見台地区は、もっと標高が高くその上部から水が流れ出していたと思われるのだ。
この赤穂山を源流とするのは芦名川と安藤川だけではない。禅馬川、陣屋川や森浅間神社に流れ落ちる朝日滝なども同じだ。
横浜は丘陵と谷戸の都市とも言われている。丘の上に住んでいる人たちにとっては坂が多くて不便なので、中区本牧では222系統という小さなバスが上まで走るようになった。磯子区の杉田でも大谷団地へ行く小型の循環バスができている。
そんな丘陵と谷戸という地形はさまざまな恩恵をもたらしていた。丘陵から流れ出た水が谷戸で川となり周囲の田んぼを潤してきた。流域ではそれを飲み水や染物の布洗いなどで利用してきたし、栄養豊富な水は根岸湾に注ぎ、沿岸部の漁業を支えてきた。
一方で、横浜は丘と谷戸の都市であることから、原爆を落とされなかったという経緯もある。戦時中、アメリカは日本のどこに落とすかを検討している。条件は東京と長崎の間で人口が集中している直径4.8km以上の広さのある都市で、なおかつ大規模な空襲を受けていない都市ということで、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、福岡など17都市が候補にあがっていた。
やがて京都、広島、横浜、小倉、新潟の5都市に絞られる。当時の横浜は、重要な目標施設が大きな水面によって隔離されている、日本中でもっとも厳重な対空砲火集中地帯の中にある、丘陵が多く、原爆の破壊効果が測定しにくいということから横浜は候補から除外された。
その代りに用意していたのが5月29日の横浜大空襲だったが…。
【暗渠探索の愉しみ】
散歩の途中、買い物の行き帰りなどでは、その道だけではなく、交差する路地も何気なく観察したい。もしかしたら、そこで暗渠サインが見つかるかもしれないからだ。暗渠サインというのは、「ここは昔、水路や川だったのではないか」と思わせる風景、物体、店舗などである。
たとえば川も橋もないのに親柱や欄干だけがある、細くて曲がった小径に車止め、コンクリート製の板を並べた道路、銭湯跡、クリーニング店、豆腐店、プール、横浜市の境界杭、小径沿いに並ぶ民家との段差是正のための2段ほどの階段などだ。
毎日の通勤経路や散歩道だけではなく、初めて訪れる町でも暗渠サインを意識して歩きたいものである。こういう物を見つけたら、昔の地図(昭和30年代の住宅地図など)と見比べて水路跡を確認することができるかもしれない。
その他にも思わぬ発見がある。今回の探索で見つけた旧護岸、水の流れ、そして暗渠とは関係ないかもしれないが、「なにこれ」(長屋門とか墓地)とかの風景。こういうものを発見すると、なんだか得したような気になる。
そして、運が良ければ路上で出会った古老から話が聞けるかも。その話から、昔の風景を想像することもできる。
そんなことを感じながら、今回の暗渠探索を終えた。【了】
横浜市磯子区民文化センター 杉田劇場
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