杉劇ひばりの日2021 6月23日(水)
杉劇ひばりの日2021
旧杉田劇場とひばりさん トーク&ライブ
開催日:2021年6月23日(水)
会 場:5階ホール
司 会:岡田美咲(NHKアナウンサー)
ゲスト:美空ひばり縁の方々
関戸芳雄さん(「魚増」で働いていたひばりの親戚)
鈴木宙明さん(滝頭小学校での同級生)
司会 今年はひばりさんの33回忌にあたります。ここ杉田劇場ならではの「ひばりの日」にしたいと思います。第1部はひばりさんに所縁のある方に登場していただき、知られざるエピソードをご披露していただきます。まずは、このかたに登場していただきます。ひばりプロダクション代表取締役社長加藤和也さんです。
この杉田というところは、ひばりさんとは切っても切れない縁のある場所ですね。
加藤 あの当時、劇場があるというのは限られていたと思うんですよね。母にとっては、美空ひばりになっていくというときに大きな力を貸してくれた劇場だと思います。
司会 あそこに劇場があったということで、将来、あそこまで活躍されるようになったのかもしれませんね。
加藤 最初はミカン箱の上で歌っていたのですが、いつかは劇場の舞台で歌いたいという思いはあったのでしょうね。
司会 ひばりさんからは、この杉田とか横浜についてお話を聞いたことはありましたか。
加藤 母が横浜から引っ越したときに僕が生まれていますので、写真を見ながら話は聞きました。一番多かったのは、あの魚屋さん、「魚増」の話です。みんなどういう生活をしていたのか分かりませんでしたが、あの爺さんがいて、あの婆さんがいて、そしてこの人なんだって、すぐに理解できましたね。
司会 そんなエピソードの中から一つ何か…
加藤 これは皆さんよくご存じだと思いますが、うちの爺さんは都都逸とか端唄なんかをやっていました。
母から聞いた話なんですが、おふくろに音楽のセンスを与えてくれたのが、爺さんなんですよ。これを昇華させていったのが、婆さんなんです。
二人は対極なんですよね。婆さんは口が達者で、爺さんが魚をさばく作業をやっていると、うしろから婆さんが「あ~だ、こ~だ」と文句を言い続けていたんだそうです。
爺さんは口下手だったからずっと黙っていたんですが、突然、振り向きざまに包丁が飛んできたんだそうです。柱にバイ~ンといったのをよく覚えていると、おふくろが言っていました。
よくおふくろに怒られたのが、「あんた馬鹿笑いしているんじゃないよ、下品でしょ」と言うんですが、それから10分もしないうちに本人が僕より馬鹿笑いしているんです。
僕のうちはみんなファンキーで、明るくて、人間ぽい感じだったですね。
司会 せっかくですから、和也さんにとっての杉田や横浜の思いをお聞かせいただけますか。
加藤 先ほどもお申し上げましたが、僕は横浜で生まれていませんのであれなんですが、毎年、正月には、当時、爺さんしか入っていない日野にあるお墓にお参りをするっていうのが恒例でした。横浜っていうと、あとはドリームランドに遊びに行ったことですね。そういう楽しい思い出が多いですけど、知らないことはいっぱいあります。
みんなで過ごした大切な思い出はそこに詰まっているんですね。美空ひばりを育ててくれた町ですから、本人も大切にしていたと思います。私もそういう思いは引き継いでいかなければいけないと思っています。
司会 ありがとうございました。ここからはトークゲストをお二人お迎えいたしまして、知られざるエピソードを伺っていきたいと思います。ぜひ、和也さんにも加わっていただきたいと思います。ではご紹介をいたします。ひばりさんの子ども時代を知るお二人です。関戸芳雄さんと鈴木宙明さんです。
関戸住建株式会社代表取締役社長・関戸芳雄さんはひばりさんと同い年です。ひばりさんのお父様の加藤増吉さんの弟さんと、関戸さんのお姉さまが結婚されているということで、親戚関係でもあるんですよね。
そして鈴木宙明さんも滝頭小学校時代のエピソードをたくさんお持ちでございます。宙明さんの「ちゅう」の字は宇宙の宙と書きます。本日のプログラムに挟み込んである子ども時代のひばりさんの写真は鈴木さんからご提供いただきました。
ではお話を伺っていきますね。関戸さんはひばりさんのお父さんが経営していた「魚増」で働いていたということなんですが、その時の思い出、印象は…
関戸 半年ばかり働いていたんですが、その時は居候状態でした。市場時代の魚屋さんは下がお店で、2階が住まいになっているんですね。そこで私は寝泊まりしていました。若い衆も4人くらいいましたので、皆さんと仲良くさせてもらっていました。
司会 先ほどもお母さまとお父さまの興味深い話が出ていましたが、その辺はいかがだったんですか。
関戸 若い衆はみなさん、ひばり御殿に寝泊まりしていたんですが、私だけは姉さんのところにいました。
ひばりさんのお母さんから「芳雄はなんで、こっちに来ないんだ」と、義兄のところに電話があったそうです。「芳雄は長くいないんだから…」ということで、勘弁してもらっていました。だいぶお叱りを受けたそうです。言葉は悪いですけど、若い衆は用心棒代わりですよね。
司会 なるほど~。関戸さんは初めてひばりさんに会った時のことを覚えていらっしゃいますか。
関戸 うちに来られて初めてお会いした時は、色が白いと思いました。
司会 実際に歌を聴いたりしたことはあるんですか。
関戸 劇場でいろいろ聴かせていただきましたが、その時はもう雲の上の人ですから、とても傍には寄れませんでした。でも、国際劇場にしろ江東劇場にしろ、いつもいちばんいい席で観させていただきました。
司会 なるほど。
関戸 魚屋を手伝っているときは、ひばり御殿にはちょくちょく行っていました。あの頃はほとんど毎日、ミカン箱に1箱から2箱、ファンレターが来るんですよ。そしてその中には、「返事をくださいね」といって切手とか10円とかを入れてくるんです。それを頂いちゃっていました。
加藤 面白いですねぇ。
司会 さて、次は鈴木宙明さんに伺っていきたいと思います。鈴木さんは滝頭小学校でひばりさんと同級生だったとお伺いしております。その頃のエピソードをお伺いしたいと思います。
鈴木 美空ひばりというのは大ファンですが、会ったことはなく、私が知っているのは加藤和枝だけです。滝頭小学校というのは根岸橋から西に行ったところにありました。今はコンクリートの校舎ですが、当時は木造でした。
加藤とは3年、4年のときに同じクラスで一緒でした。女の子たちは「かずえちゃん」と言っていましたが、男は「加藤、加藤」って言っていましたね。
とくに加藤との思い出があるのは、4年生の時です。一クラス56人で6組までありました。私と加藤は1組で、担任は豊田先生という男の人でしたが、すごく休みが多かったのです。
『豊田先生は今日もいない、自習』、『豊田先生は今日もいない、自習』ということになるのです。その中で級長とか班長が仕切るわけですが、いろいろなことを企てるのです。自分たちで、自習と称して遊び半分なわけです。
当時、1組にだけオルガンがありました。そこで、悪ガキたちが『加藤! 歌えっ!』とやるわけです。もちろん彼女も歌は好きですから、歌うのですが、それは小学唱歌などではなく、『あの歌うたえ!』『この歌うたえ』と言って、ラジオで流れていた流行歌を歌わせるのです。今覚えているのは「九段の母」と「セコハン娘」ですね。こういう歌を歌わせる半分、歌いたがる半分という感じで何回かやりました。
あるとき、いじめっ子がいじめたせいか、彼女が泣いて帰っちゃったんです。そうすると、彼女のお母さんが加藤を連れて、学校に怒鳴り込んでくるんです。お母さんは先生がいないのを知っているんですね。
『ひろちゃん!』(宙明とかいて、ひろあきと読む)
『うちの和枝にあんまり歌わせないで! 大事なんだから!』
級長だった僕が叱られるわけです。それが音楽の時間でした。
国語の時間で思い出すのはカルタ遊びです。それもイロハカルタではなく百人一首でした。
それと戦争中の愛国百人一首でした。これは札を取るわけではなく、読み手が上の句を詠んだら、誰かが下の句を言うわけです。
これをとてもよく知っているのが、加藤と私でしたが、加藤の方が私よりずっと知っていたと思います。
美空ひばりは難しい言葉とか漢字とか七五調が好きなんですね。これはあの時に身についたというより、刷り込まれたのではないかと思います。
もう一つは体育。
屏風ヶ浦は国道からすぐに海岸があり、みんなで屏風ヶ浦海水浴場に行きました。全員水着になって滝頭の車庫から市電に乗り、屏風ヶ浦で降りて泳ぐというのが、体育の特別授業でした。
当時の水着といったら、男は赤フンです。女の子は、いわゆるスクール水着なのですが、彼女は上と下が別々のセパレーツタイプの水着を着てきたのを覚えています。
加藤の魚屋さんのお向かいが、田中さんというタバコ屋さんでした。そこの娘さんが素子さんという子で、もっちゃん、もっちゃんと言っていました。
その子は加藤と同い年で仲が良かったと思います。僕のうちがその田中さんちと付き合いがあって、僕もよくもっちゃんのうちに遊びに行きました。
そうすると、もっちゃんが『かずえちゃん、いる~? ひろちゃんが来たわよ~』と、加藤の家に声をかけるのです。そこで、一緒にカルタをやったものです。
僕は、そのもっちゃん無しには、加藤と一緒に遊んだり話したりすることはなかったと思います。
小学校時代は、そんな自習ともっちゃんを思い出します。長くなってすみません。
司会 知られざる加藤和枝さん時代のお話を伺いました。和也さんも全然知らなかったお話じゃないでしょうか。
加藤 私がいちばん聞きたかったところです。ありがとうございました。
司会 ありがとうございます。では最後に、関戸さん、鈴木さんからお一言ずつ頂戴したいと思います。
関戸 本日は「ひばりの日」ということで、たくさんのファンの方にお集まりいただきました。また、この企画をしていただいた杉田劇場のスタッフの方々、そして明日はひばりさんのご命日ということでお忙しいところを来ていただいた和也さん、ほんとうにありがとうございました。
鈴木 美空ひばりの映画はたくさん見ました。歌もカラオケで私のレパートリーがたくさんあります。しかし、生は東京ドームでの不死鳥コンサートの1回だけでした。ちょうど花道の上の席で観ていたのですが、最後は幕の内に倒れこむように入って行ったのを見送りました。
その後数年してからお墓参りに行ってきました。いいお墓ですよね。またお参りに行ってきたいと思っております。
司会 ここまで、関戸さん、鈴木宙明さんに、たいへん貴重なお話を伺いました。お二人、どうもありがとうございました。
加藤 ありがとうございました。
司会 初めて聞くお話も多かったのではないですか。
加藤 そうですね。もっとお聞きしたかったですね。いちばん分からなかったのが小学生時代のことです。だれも教えてくれる人がいませんでしたし。
僕のイメージの中では、すっと仕事をしている人だったので、小学生時代には遊んでもらっていたんだなぁと、ちょっとほっとした感じです。ありがたいお話でした。
司会 さて、今日は地元の皆さまから貴重なエピソードをお寄せいただいているのでご紹介させていただきますね。まず一つ目が、杉田商店街の芝時計店様から。
「子どもの頃の加藤和枝ちゃんとお母さまが、ミカン箱を持って店の前で一曲歌わせてほしいと言ってやって来て歌っていきました」
加藤 ほ~ぉ、自分ちの店の前ではなく、今でいう営業活動じゃないですけど、そういうこともやっていたんですねぇ。それは知らなかったです。
司会 そして、これも小学校の同級生の方です。
「私と和枝ちゃんとせっちゃん(和枝の妹・勢津子)の3人は滝頭小学校の校庭でよく遊んでいました。和枝ちゃんは自転車に乗れなかったんです。それで、せっちゃんが一生懸命に教えていました」と、そんなエピソードです。
加藤 あ~、そうなんですよ。ずっと乗れなかったんです。映画でも誰かが下で支えていたといいます。あんなに踊りは踊れたのに、と思います。
司会 そして三つ目。この方は今日のこの会場にお越しのようなんですが、磯子区森の土谷さんという方です。どこにいらっしゃいますかねぇ~。
加藤 あっ、いらっしゃった!
司会 「旧杉田劇場で子供の頃の美空ひばりさんが歌っているのを実際に見ました」ということです。では、他にこの会場にいらしている方々で、子どもの頃の和枝ちゃんが歌っているのを見たという方はいらっしゃいますか?
会場 ……。
司会 やっぱり土谷さんの思い出は貴重なんですねぇ。
今日はひばりさんのお人柄が分かるお話をたくさん聞かせていただきました。どうもありがとうございました。【了】
ひばりの日2022 6月23日(木)
杉劇ひばりの日 2022
ひばり ~未来へ~
≪第1部≫
地元スペシャルトーク
~皆さんの「ひばり自慢」による熱いトーク~
司会 岡田美咲(NHKアナウンサー)
スペシャルゲスト 加藤和也(ひばりプロ社長)
スペシャルゲスト ミッキー吉野(ゴダイゴ)
スペシャルゲスト 諏訪勉(ひばりさんの従弟)
オープニング
美空ひばりの歌と映像
「悲しき口笛」 歌と映画の一部 そして語り
司会:今日は美空ひばりさんゆかりのゲストをお迎えして、知られざるエピソード、新しい情報を皆様にお届けしてまいります。それでは本日のスペシャルゲスト、加藤和也さんです。
加藤:母は今年、85歳になるようですが、残された写真や映像は見た目が若くていいなと思っております。私はあと1年で母が亡くなった年齢になります。(中略)今日はゲストの方々が私の知らない話をしてくださるので、楽しみにしております。
司会:そして同じくスペシャルゲストのミッキー吉野さんと美空ひばりさんの従弟の諏訪勉さんです。お二方、よろしくお願いいたします。
その前にドキュメンタリー映像をご覧いただきます。
~映像「ひばりと横浜」~
丸山市場前。
「ここは磯子区、ひばりさんの生誕の地です」と草野仁さんが紹介。
「昭和12年5月29日、ひばりさんはこの地で産声をあげました」
滝頭の路地裏。ひばりの生家。
「昭和の息づかいが残る町並みです」
ひばりの生家はこの地で鮮魚店を営んでいた。忙しい彼女だが、たまの休みには父の店の手伝いに立っていた。
その「魚増」、現在は親戚が屋号を受け継ぎ経営を続けている。
「だれにも愛されるひばりの庶民性、その原点がここにあると、そんな気がします」
磯子区民文化センター杉田劇場。
ここには当時のひばりを知ることができる貴重な資料が残されている。
これはひばりの初舞台となった旧杉田劇場の写真。当時は剣劇などの芝居が人気を博していた。
こちらは宣伝用のポスター。出演者の名前が並ぶ一画に、美空楽団、そして美空一枝とある。これはひばりのこと。
さらに、ひばりデビューの頃を見ていた人がいる。元杉田劇場職員、片山茂さんだ。ポスターは片山さんの寄贈。
「お母さんが寒いときに和枝を連れてきたんですよ。寒いから中に入りなさいって言ってさ。
開演時間にはまだだいぶ時間がありますからね。そしたらお母さんが、芝居を見に来たんじゃなくて社長さんに用があって来た、というんですね」
用事とはひばりの売り込みであった。(中略)緞帳の前であったが、ひばりは初めて歌をうたうチャンスをつかむ。
歌声は劇場のプロデューサーを驚かせた。
「あれは見込みがある。あれは芸人だってね。そこで楽団を作ろうじゃないかとなり、自分で考えて美空楽団というのを作ったんですよ。そして緞帳の前ではなく、本舞台で歌うことになったんです」
こうして、ひばりはポスターに名を連ねるようになり、本格的な芸能活動をスタートさせた。
「このポスターが出たときにね、お母さんはポスターの前を離れないんですよ。初めて公のところに出たから嬉しかったんでしょうね。娘のポスターの前で立ちっぱなしで、涙をこぼしてね、やっぱり嬉しかったんでしょうね。
一枚の写真
ここに大勢の子どもたちが写る写真がある。中央にいるのは美空ひばり。ジャケットにパンツ、パーマがかかった髪。写真に写るのは何年生のひばりなのだろうか。
飲食店の座敷
同窓会を訪ねてみた。卒業アルバムの最後のページに一枚の写真と同じ写真が貼られていたのである。持ち主は3年生のとき同じクラスだった登内謙次さん。一枚の写真、それはひばりが3年生の時の写真だった。
湯川千鶴子さんの思い出。
「うちに来ない?と言われて伺ったの。そこで、絵の具のパレットみたいなものに、いろいろな色が並んでいて、『こうやって、こうやって付けるの』なんて言っていました。こういうのを付けるから、ああいう風になるんだ、と子ども心にもビックリしました」
さらに、ひばりが友だちに明かした意外なエピソードがあった。
「私ね、音楽ぜんぜん良くないのよ。私がうたう歌は学校の歌とはぜんぜん違うから、音楽の成績は良くないのよなんて言ってましたね」
「小学生が大人の歌をうたうなんて、先生は絶対許さなかったんだよね」
「小学校1年の担任の先生が彼女のファンで、私と平坂さんと二人で教室の前を歩いていたら、ちょっと、ちょっとと呼び止められて、中に入って行ったら本人がいて『先生からサインしてほしい。歌もうたってくれと言われて困っているのよ』と言うんです。『学校では禁止だから、歌うわけにはいかないんだよね~』とも言ってました。
しかし仕方ないから皆が帰ったあと屋上で歌うことにしたから、放課後、屋上に来てほしいと言われました。そして放課後、新井先生と和枝ちゃんと私たち2人の4人で屋上へ行きました。『これは東京キッドという歌で、まだレコードにもなってない』と言って歌ってくれました」
仲間たちと映る一枚の写真。そこには飾らないひばりの素顔があった。
(ドキュメンタリー映像終了)
↑ 父・加藤増吉が経営する「魚増」で手伝う美空ひばり
↑ 旧杉田劇場で働いていた片山さん
司会:いかがでしたでしょうか。
ミッキー:なんか、見入っちゃいましたよね。真剣に見ちゃいました。
加藤:なんか楽しかったですね
司会:今日はこの場にいらっしゃる方だけにしか聞けないようなお話を伺っていきます。
加藤:私も楽しみです。私は昭和46年生まれなんです。母が青葉台に越したころ生まれています。母のルーツである横浜となると、私は詳しくないんですよ。ミッキーさんのなれそめの話とか、今日はお聞きしたいと思います。
ミッキー:私は一番ひばりさんの恩恵を受けていますね。諏訪君もひばりさんと一緒に住んでいたんですけど、ひばり御殿は高台にありまして、うちはその下で国道16号沿いにあったんです。
小さいころからうちの前に観光バスが止まるんですよ。家の際ではなく、下り車線だから向こう側ですね。そこにズラッと並ぶんです。うちは道路側に庭があって、私はそれを見て手を振っていました。小さいころから手を振るのは慣れていたんです。それが恩恵の一つです。
さっき言ったようにうちの真裏がひばりさんのおうちだったんですよね。あの頃は埋め立てていなかったから、目の前は海だったんです。
諏訪:ひばり御殿とミッキーさんの家の位置関係なんですけど、小学校の時はグループで集まって通っていました。ミッキーの場合は学校の鐘が鳴ってから来るんですよ。学校の前だったんですね。隣といってもそれくらい差があったんです。
ミッキー:それで2つ目の恩恵ですけど、花火の時は船がやってきて、ちょうどうちの前で止まって、そこで花火を打ち上げるんです。どうしてか分かりますか?
加藤:いや~、わかりませんね。
ミッキー:きっと、ひばりさんの寄付が一番多かったんじゃないですか。うちの前は建物がないから、それはもうベストですよね。
↑ ひばり御殿とミッキー吉野家と浜小学校の位置関係
加藤:横浜って、私は写真でしか見てないんですよ。なんで東京に引っ越したんだろうって思いますよ。当時はテレビなんかの仕事もあったから、と言ってましたけどね。つとむ兄さんはずっと住んでいたんですよね。
諏訪:私の父がひばりちゃんの運転手をずっとやっていまして、そんな関係で一緒に住んでいたんですよ。父は運転手兼ボディガードですね。
加藤:親戚にそうやってもらうのって、安心ですよね。
諏訪:A・K(小林旭)さんと結婚するまではずっと一緒にいました。
ミッキー:私は小学校に入って諏訪君と同級生になったんですけど、そこからまた違うストーリーが始まったんですよ。自慢ストーリーが。
なんか仲良くなっちゃって、いつも遊びに行ってました。オフの時なんかは諏訪君のお父さんに車に乗せてもらったりね。あの頃の車はキャデラックでしたよね。走っていくと電信柱が5,6本、バーッと飛んでいくような雰囲気。
諏訪:あの頃は電信柱ばかりだったよね。
ミッキー:そんな早さだったんです。
加藤:ミッキーさんとつとむ兄さんは母と一緒に遊ぶ機会はあったんでしょうか。
ミッキー:私はなかったですね。
諏訪:だいたい仕事やって帰ってくると、昼間寝てるんです。
ミッキー:そうそう、だから騒ぐとお母さんに怒られたよね。
諏訪:あのドスのきいた声でね。「おいっ、つとむー」って。
加藤:婆ちゃんですよね。今でもトラウマになるほど怖かったですよね。
諏訪:あの声を聴くと、ひばりちゃんの歌のうまさは諏訪家のものじゃないですね。
加藤:歌は、やっぱり加藤家の血だと思います。さっきの映像も見ましたが、この横浜(磯子)で生まれ育って、あの婆さんと爺さんがいて、美空ひばりが出来上がっていると、いつも思ってます。
ミッキー:本当に怖かったよね。諏訪君と一緒に遊んでいると、雨戸がバンと開いたりして……。
弟さんの武彦さんには、よくチャンバラを習ったよね。
諏訪:ヘビを投げられたりね。
ミッキー:9メートルくらいのプールがあったんですよね。
諏訪:10メートルですね。
↑ ひばり御殿の玄関前で(諏訪勉さん提供)
↑ ひばり御殿の庭 後方の柵の中がプール(諏訪勉さん提供)
ミッキー:「お前ら、プールに入っていいぞ」と言われて入るじゃないですか。そうすると、そこにアオダイショウを投げ込まれるんですよ。
加藤:そういう人でしたね~。本当にいたずらが好きな叔父でした。出っ歯になるような入れ歯を作って、それを嵌めて歩いたり。
ミッキー:私は16歳のときザ・ゴールデンカップスでデビューしたんですけど、そのときの曲が「愛する君に」なんです。ひばりさんはそれをすごく気に入ってくれて、本当に嬉しかったなぁ~。
最初は近所ということで自慢だったんだけど、だんだん自分も音楽をやり始めて……。ゴダイゴの所属はコロムビアなんですよね、そこで新人賞を貰うんです。
そのとき、ひばりさんとお母さんと一緒になって、「小さいころ、よく庭で遊んで怒られていたんですよ」という話をしたら、もう、すごく喜んでくれたのね。
そしたら、それから私のこと「坊や」になっちゃったんです。その後も、会うたびに「坊や、良かったわね」とか言われて、それもいい思い出ですね。
諏訪:磯子のうちで映画鑑賞もしていましたね。16ミリでしたっけ。
ミッキー:そう、そう。
諏訪:その時やっていたのが「千姫と秀頼」。
加藤:錦之助さんとの映画ですね。
諏訪:もう一つが「森の石松」。正反対の映画です。あれで芸の広さが分かりますよね。片やお姫様、片や男役でしょ。
ミッキー:なぜか私もそこにいさせてくれたんだよね。
諏訪:寝てなかった?
ミッキー:見てましたよ~ もう一つ面白いことがありました。映画を観ているときに、ひばりさんのお母さんが笑うんですよ。そうすると来ている人、みんなが笑うの。分かります?
加藤:婆ちゃんが笑ったから、みんなとりあえず笑っとけみたいな。
ミッキー:忖度の世界だったんですよね。あれはちょうど小学2、3年の頃だよね。インパクトありました。
加藤:そうですよね。私なんか人生全部をプロデュースされていますからね。
諏訪:私なんか、ひばりちゃんとそんな思い出はあんまりないんですよ。お仕事していましたからね。
浅草の国際劇場に親と一緒に行ったりするんですけど、楽屋はシーンとした緊張感がすごかったですね。ひばりちゃんも他の人がいるから、毅然としているわけですよ。
皆さん楽屋に来てあいさつするんですけど、自分も偉くなっちゃったような気がして……
加藤:つとむ兄さんもそう感じましたか。さっきまで一緒にいた人とは思えない現場の緊張感ですよね。
ミッキー:それで、思い出しました。実はコロムビアでひばりさんがレコーディングしていて、ゴダイゴが地下でリハーサルをしていたんです。そしたらひばりさんとこのベースプレーヤーが、なぜだか来ていないんですよ。
分かるでしょ、あの緊張感の中で、みんな真っ青になって私のところに飛んできて、ベースのスティーブを貸してくださいって言うんですよ。
ゴダイゴの音楽と、ひばりさんの音楽は違うから、「お前、行ったらヤバイぞ」と、みんなで脅かしちゃったの。「ちょっと間違えたら大変なことになるよ」と。
それでスティーブは大緊張で行ったのですが、なにも弾かないうちに向こうのベースプレーヤーがやって来て助かったという話。
ひばりさんは基本的に同録(同時録音)じゃないですか。その緊張感はすごいですよ。私は付き添いで行ったんだけど、大変だったなぁーと。
加藤:その話、初めて聞きました。
ミッキー:専属の歌手がみんなで集まってやる「コロムビア大行進」というのがありましたでしょ。
そこで私も客席に座ってひばりさんのリハーサルサルを見ていたんですよ。私なんかでも分からないような、ほんのちょっとの間違いに、ひばりさんは気がつくんですよ。
加藤:普通は分からないような…
ミッキー:それを、その場ですぐ止めてね。あの緊張感たらないですよ。本当のプロ根性というものを見せてもらいましたね。
加藤:私も最後のステージまで付き添わせていただきましたけど、最後の最後の、もうこれ以上歌えないっていう九州公演の最後の日に、あそこでもダメ出しをしているんですよね。
ミッキー:やっぱり、ひばりさんは違うんだなと、再認識しました。
残念だったことがひとつ。まだ入院する前のことなんですけど、横浜博覧会というのがあったんですね。
そこで私が曲を書いて、横浜出身のザ・ゴールデンカップスとひばりさんが共演してレコードを作ろうという話がありました。それを発表する直前に入院されてしまったのです。それが、すごく悔やまれます。
加藤:私もそれを拝聴したかったです。
ミッキー:そういうことで共演したことはなく残念でした。
加藤:お若い時から縁があったけど、音楽的にはあれだったんですかね。
↑ ひばり御殿のホール ひばりと妹(園部智子さん提供)
ミッキー:ひばりさん独身最後の誕生パーティーにも潜入させていただきました。その当時の日本のスターが全部いるんじゃないかと思うぐらい、いらっしゃったんですね。あそこの庭は800坪でしたっけ。そこに「久兵衛」クラスの屋台が出ていました。ベランダには小野満とスイングビーバーズというビックバンドが来て、バンバンやっているんですよ。
加藤:めちゃくちゃ豪華ですねぇ。
ミッキー:あとから映画の「ゴッドファーザー」を観て、これって昔観た絵だなぁ~と思いました。あれがひばりさん独身最後の誕生日パーティーでした。小学4年生だったんだけど、あれがずっと焼き付いていますね。
加藤:もうちょっと早く生まれたかったです。
ミッキー:見せてあげたかったですよ。今じゃ、あんなことできないですけど、スケール感とか、華麗な世界とか、すごかったなぁ。
加藤:つとむ兄さんはどうですか。
諏訪:私は車に乗せてもらうのが好きでね、買い物に連れて行ってもらうんです。
加藤:どこに行ったんですか。
諏訪:元町です。一緒について行くんですけど、行くところは婦人服の店です。「つとむ、買ってあげるから」というんですけど、婦人物しかないわけですよ。買ってもらっても女の子の格好になるんです。
加藤:結局それを着たんですか。
諏訪:もちろん。大事に着させていただきました。
加藤:男物も並びにあったんだろうと思いますけど、お買い物も一緒に行っていただいたんですね。
このようなお話を聞くと、あと20年早く生まれたかったと思います。
ミッキー:僕らと20年違うんですよね。
加藤:私はミッキーさんの音楽で育ってきました。
諏訪:ミッキーも私もずいぶん悪いことをしたんですけど、小学校の頃、ミッキーはピアノを習っていたんですよ。私はいつもミッキーの家にバットとグローブを持って「おい、遊びに行くぞ」と言ってたんです。ミッキーもレッスンさぼって野球に行っちゃうんです。
加藤:そのままいってたら野球の選手になっていたかも……。
諏訪:やっぱり持っているものが違いますから。ひばりちゃんもそうですけど、やっぱり素質というものがあったからと思います。
加藤:めちゃめちゃ面白い話ですよね。もっと聞きたいですけどね。
司会:こんな貴重なお話がたくさん聞けるとは思いませんでしたけど、間もなくお時間ということになりますが、最後に、ミッキーさんと諏訪さんに、ひばりさんに何かメッセージをお願いしたいと思います。
ミッキー:ひばりさんの誕生日が横浜大空襲と同じ月日なんですよね。自分の親のことより覚えています。必ずいたという感じ、いつも顔を思い出します。
葬儀にも行かせてもらいました。目を見ていると、何か言われているような気がするんです。
ひばりさんから学んだということは、絶対に手を抜かないということは当たり前なんですが、常にそれ以上に向かい、人に響く存在であれということを学んだと思います。
言いたいことはひと言、「ありがとうございます」です。
諏訪:亡くなってしまったことは事実なんですけど、皆さんの心の中には永遠に生きていると思うので、これからも美空ひばりをよろしくお願いしたいと思います。
いちばん心配しているのは和也君自身のことです。来年でひばりちゃんが亡くなった時の年齢になるでしょ。加藤家って短命なんですよ。だから身体を大事にして、いつまでも美空ひばりを皆さんに届けてください。
司会:和也さん、いかがですか。
加藤:亡くなって33年も経って、皆さんにこうして愛してもらって、こういう日を設けてくださって、本当にありがたいと思います。
おふくろに言いたいことは、ずっと忙しくさせていただき、ありがとうということです。
今、つとむ兄さんからも暖かいお言葉をいただきましたが、これからも美空ひばりの歌を日本に、世界に発信していきたいと思います。皆さん、よろしくお願いいたします。
今日は、貴重なお話をお聞かせくださってありがとうございました。
司会:諏訪勉さん、ミッキー吉野さん、加藤和也さんでした。皆様、拍手でお送りください。
杉劇ひばりの日2024 6月23日(日)
杉劇ひばりの日2024
わが心の美空ひばり トーク&コンサート
開催日:2024年6月23日(日)
会 場:5階ホール
聞き手:加藤和也(ひばりプロ社長)
ゲスト:美空ひばり縁の方々
岡村和恵さん(ひばりの師匠・川田晴久の長女)
諏訪 勉さん(ひばり御殿に住んでいた従弟)
加藤:歌手であり俳優でもあった昭和の大スター・川田晴久さん。この方は美空ひばりにとってのお師匠さんです。加藤和枝がこの方に出会っていなかったら、果たして美空ひばりは生まれていたのだろうか、といっても過言ではないほどの恩人でございます。
今日は、その川田晴久先生(1907~1957)のご長女である岡村和恵さん(89)にお越しいただきました。よろしくお願いいたします。
僕の知らないお話などをたっぷりお伺いできるのではないかと思いますので、皆さんもどうぞお聞きいただきたいと思います。
僕は母の初期の頃のことを全然知らないんです。岡村さんは母より2つ上のおねえさんなのですよね。まずは、母と川田先生との出会いのことからお伺いできますでしょうか。
岡村:私の父とひばりさんの出会いは、父のメモ書きによりますと、昭和23年の5月2日(日)から9日(日)までの8日間、横浜の国際劇場で出演した時にお会いしているのです。(注:この時ひばりは10歳で滝頭小学校の5年生)
それから、今まで細くて長いご縁が続いております。ご縁というのは太くて短いよりも、細くて長い方がいいそうですね。私は小さい頃のひばりさんをよく存じ上げております。
加藤:当時の母はまだ駆け出しで、名前も売れていなかったときに、先生にご縁があったということなのですが、そのキッカケというのは何だったんでしょうか。
岡村:私は父から劇場に誘われたことは一度もないんです。ただ、先ほど申し上げた横浜国際劇場に父が出演した時、家に帰ってきてこう言ったんです。
「いま出ている女の子はすごく歌がうまいんだよ、まだ小さいんだけどね」
私はその小さいという言葉に、ものすごく引っかかったんです。そんな小さい子がというので、私は横浜国際劇場に行ったんですよ。
そうしたら、劇場は満員で扉は開けっ放し。立ち見のお客さんの後ろの人はピョンピョン跳ねているのです。ですから私なんかは見えないわけです。
それで「見えない」と父に言ったら、オーケストラボックスに入れてくれたんです。そのとき初めてひばりちゃんを見たんです。たしかに小さかったですね。
私は彼女が童謡を歌うと思っていましたら、なんと歌ったのは「星の流れ」でした(昭和22年10月にテイチクから発売された歌謡曲)。その曲の2番の歌詞は ♪煙草ふかして 口笛ふいて~ というのですが、それが子供とは思えない雰囲気だった。つまり女優さんだったんです、その頃から彼女は。
昔は歌手と女優は分かれていました。それをひばりちゃんは一緒くたにしちゃったんです。そういったジャンルを取っ払っちゃったんですね、ひばりちゃんは。もちろん上手だったですよ。
そして、歌い終わってもお客さんから拍手はしばらく来なかったです。私もなんだかポカンとしていました。それから一瞬おいてワッと拍手が来ました。
ひばりさんは初めから出来上がっていました。驚きでしたね。
加藤:川田先生が眼をかけてくださって、お父様と一緒に観に行ってくださったんですね。
岡村:稀有な才能があるうえに努力をされるからすごいですよね。
旅に行くときは一緒に連れて行きます。これは芸とは関係ないエピソードなんですが、父のお弟子さんにダイナブラザーズというグループがいたんです。埼玉県で行う1日の興行があって、ひばりちゃんを連れて行ったんです。
それを見た父が、「ちゃんと子守りをしろよ」と言ったそうです。それで出かけて行ったら、ダイナの後ろからアイスキャンデー屋さんが来たんです。当時は自転車の後ろにアイスボックスをつけて、チリンチリンと鳴らしながら来るのですが、そうしたら、ひばりちゃんが「お兄ちゃん、アイスが食べたいと言ったんですって。
それを聞いてダイナの方が、「腹を壊すといけないからダメだ」と言ったんです。そうしたら「お兄ちゃん、腹を壊しても言わないから」って言うんです。
加藤:あはははは~
岡村:先をいったそうです。頭いいんですね~。結局、アイスキャンディーを2本買ったのですが、ひばりちゃんがお金を出すときにダイナの人が言ったそうです。
「こいつは、俺より稼ぎがいい」って。
この話、ひばりさんは生涯、人には言わなかったことです。
加藤:岡村さんは母より2つ上だったわけで、お家に出入りさせていただいて何か面白いエピソードとかありますか。
岡村:はじめね、ひばりちゃんのお母さんは、ひばりちゃんのことを「和枝ちゃん」と呼んでいたんです。私も字が違いますが「和恵」というんです。
で、うちは「かずえ」と呼び捨てだったんです。でも、よその方は私のことを「かずえちゃん」って呼ぶんです。
ひばりちゃんのお母さんがひばりちゃんのことを「かずえちゃん」と言うと、私が「はい」って応えるので非常に混乱した時期がありました。それで、ひばりちゃんのことを「かずえちゃん」ではなく「お嬢」と呼ぶようになったんです。
加藤:「お嬢」のルーツは、やっぱり川田先生のところだったんですね。「お嬢」の謎が解けました。
打合せでちょっとお聞きしましたが、川田先生と仲良くなって、車で銀座に行った時のお話。
岡村:あの頃は国産車がなくて、全部、輸入のアメ車なんですね。ひばりちゃんの車に父とひばりちゃんと私の三人で乗って行ったんですよ(運転手はひばりの叔父・諏訪重吉氏と思われる)。
今はそこら中にありますが、あの頃は銀座7丁目に1軒しかなかった「コージーコーナー」です。そこは瓶詰のジュースではなく、果物を絞って飲ませるお店でした。
それを飲んで店から出てきたとき、前の車に当たったような気がしたんです。でも実際は当たっていませんでしたが、相手の運転手さんが「なんだ~この野郎!」って言って降りてきたんです。
そうしたら、ひばりちゃんが窓を開けて、顔を出そうとしたんです。それを見て父が「ひばりちゃん、出るんじゃない!」、「お前が出ろ」って私に言うんです。
それで私が外に出たら、前の車の運転手さんが一生懸命にキズを探そうとしているんです。あるわけないですよね。こちらの運転手さんが間一髪でブレーキをかけていたから衝突していないわけですから。
そしたら父が「どうした?」と聞くので、私が「どうもキズを探しているみたい」と答えると、ひばりちゃんが大笑いをしながら、こう言ったんです。
「キズを探しちゃぁ、いけやせん、スチャラカ、スチャラカ」って。
そんなことが銀座に行った時の思い出ですね。
加藤:戦争が終わってそれほど経っていない昭和25年に、母は川田先生と一緒にハワイ・アメリカ公演に出かけます(中学1年生だった12歳の時である)。この時のエピソードは何かありますか。
岡村:当時はアメリカに行くにはマッカーサー元帥のサインが必要でした。しかし、なかなか許可が下りませんでした。ひばりちゃんはベイビーだ、向こうに行ってどんな仕事をさせるのか、何時間働かせるのか、ということが問題になったわけです。
そして、無理な労働はさせないということで、やっと許可が下りたんです。
羽田に行きましたら、第2代東京市長だった尾崎行雄さんと一緒になったんです。私たちがベンチに座っていると、カメラマンがたくさん来て、パチパチとひばりちゃんの写真を撮るんです。そして、そこに尾崎さんが現れたら、今度はカメラマンがそちらへ流れていき、パチパチと写真を撮っていました。
私はひばりちゃんの耳元で「あの人は偉い人なんだよ」と言ったんです。そしたら、ひばりちゃんはベンチの背中のサイズを指で計っていたんです。それを見た尾崎さんがニッと笑われたのを私はよく覚えているの。
加藤:手で尺を計っていたんですかね。面白いですね。
岡村:当時の羽田空港は滑走路が一本で、草原でした。そこで飛行機に乗るわけですが、尾崎さんとご一緒になりました。
祖母は、飛行機なんて落ちて当たり前なんて言っていましたが、私は尾崎さんと一緒なら大丈夫と思ってました。
加藤:それでハワイ、アメリカでロケをして歌をうたって回ってきたわけですが、これも川田先生がおられてこそだったと思います。
川田先生のところでは、母だけでなく叔母や私の父・哲也(加藤益夫)も大変お世話になっていたとお聞きしています。
岡村:(昭和28年の4月)ちょうど間坂の家(ひばり御殿)を建築中だったんですね。新学期が始まったんですけど、東京の学校だったので、せっちゃん(勢津子)とマー君(益夫)の二人を家で預かったんですよ。
せっちゃんは思慮深くて物静かな人でした。あの人が姉弟を支えていたんだと思います。
マー君は可愛かったです。私のことを「お姉さん、お姉さん」って言ってね。たいして面倒をみていたわけではないのですが、ママに「すごくいいお姉さんだった」と報告していたそうです。
加藤:うちの爺さん、増吉ですが、「うちの娘がお世話になって…」ということを川田先生に話をした時のことを。
岡村:アメリカに行く前夜のことです。目黒に雅叙園ホテルが今でもありますが、当時、そこは進駐軍に接収されていて日本人は入れなかったんですけど、私たちはハワイの第100歩兵大隊の招聘でしたから、そこにひばりちゃんの家族と私たちの家族とで2部屋とったんですね。
11時頃、ひばりちゃんとママが「おやすみなさい」を言うために、うちの部屋に入ってきましてね、そしたらうちの父が「二人ともそこに座れ」と言うんです。
「あのな、さっき俺が風呂に入っていたらお父さんが来て、俺の背中を流してくれたんだ。そして『あの二人をよろしくお願いします』と言って泣いたんだぞ」
お母さんはひばりちゃんといつも一緒でしょ。お父さんとしても寂しいですよね。
「なにがあっても、お父さんにとってはお前たちが一番大事なんだぞ。それを忘れるんじゃないぞ」と二人に父が言ったんです。
そしたらママがね、「分かった…」と言って泣いていたんです。ひばりちゃんも何か感じていたと思うのですが、お母さんの顔を下から見上げるようにしていたのをよく覚えています。
お父さんも、姉弟たちも、みんなそれなりに犠牲を払っていたんだと思います。
加藤:増吉爺さんは僕が生まれる何年も前に亡くなっているので、直接話を聞いたことはありません。うちの婆さんは口が達者だったのに対して、爺さんは口下手であまり喋らなかったと聞いていますが、言いたいことはたくさんあったと思います。多分、自分では伝えられなかったと思うんで、それを川田先生が代弁してくださったということですよね。本当にありがたいと思います。
岡村:穏やかないいお父様でしたよ。
加藤:ほかにエピソードなんかありますか。
岡村:これはアメリカから帰国したあとの話ですが、ママは2か月日本を離れていたんですね。
このとき、松竹が築地の料亭で一席設けたんです。松竹の重役さんが全部いらしてました。アメリカでの2か月間の興行の報告をしたわけです。
父とひばりちゃんは、第100歩兵大隊の招聘でハワイへ、そして日米キネマという会社の招聘でアメリカ本土へ行ったんです。その会社に対して「お金は要らないからアメリカで本物のジャズを聴きたい」ということで、ミリオンダラー劇場へ行ってライオネル・ハンプトン(1908~2002)を初めて見たわけです。その時の話をひばりちゃんがしたんです。
あちらは客席と舞台が一体だと。日本では舞台で歌い終わったら、それを観ているお客さんが拍手をする、その間には何か一線がある、そんな感じでしたが、ライオネル・ハンプトンはそうではなく、お客さんが足踏みをして手拍子を叩き、ヘイヘイ、ヤーヤーとやるのだそうです。
あれは凄かったとひばりちゃんが言うわけですよ。それは大人が話しているような感じでした。日本もだんだんそうなってきましたが、そういう意味ではひばりちゃんはパイオニアだったんじゃないかと思います。
加藤:ものすごく新鮮なステージを二人で観に行ったということなんですね。
岡村:ひばりさんてね、歌い手で女優さん、そして歌舞伎、新国劇、新派、新劇と、別々のジャンルの垣根を全部取っ払っちゃった人なんです。
ひばりちゃんが東北で公演をしてこれから京都へ行くという時、横浜の家に帰るのは時間がないということで、うちに来るんですよ。そうすると、そこにせっちゃん、マー君がいるわけです。ここでママにも会って、それから次の旅に行くんです。
そこで、ひばりちゃんはマー君に後ろから抱き着いていたりして、うちの祖母が「ひばりちゃんは妹弟思いだね」なんて言って涙ぐんじゃうことがありました。
あの頃はいろいろありました。アメリカに2か月も行って帰ってきたときのことです。その間、ママは他の子供たちのことを、ほったらかしにしていたんですね。それで今度はひばりちゃんをうちに預けて、ご自分は横浜で他の子たちの面倒をみるわけです。
そこで私はひばりちゃんとトランプをして遊んでいました。トランプと言ったってババ抜きと神経衰弱と七並べしかないんですよ。ひばりちゃんは汗知らずを塗って、一生懸命やるんですね。それで子供のくせに2時頃まで起きて遊んでいました。それで父から「早く寝ろ!」と怒られたりしていました。
小さい頃のひばりちゃんは普通のお嬢さんでしたねぇ。うちのお手伝いさんなんかは「あれ、美空ひばりだよね」と言ったくらいでした。
プロダクションの男の事務員さんにも分け隔てなくてね、その人が親知らずが痛くて、電車の中で泣いていたのを見て、その真似をするんです。真似がすごくうまいんですね。
加藤:当時は子供が歌うのを、どうのこうのと言われていたのですが、川田先生が認めてくださって、一緒にお芝居、映画、歌もと可愛がってくださって、とても心強かったと思います。
岡村:歌のほうは会った時から出来上がっていました。聞くところによると、普通の鳥は飛び立つ時にスーっと斜めに飛んでいくのですが、ヒバリは真っすぐ上に舞い上がっていくそうですね。ひばりちゃんは、そんなヒバリのように一気に上に行っちゃたんです。
歌舞伎座に出たときもいろんなことがありましたよ。松竹としてはひばりちゃんを乗せる格式の高い舞台は、もう歌舞伎座しか残っていなかったんです。チケットはすぐ完売しちゃったのですが、うちは2枚頂き祖母と二人で行きました。
ひばりちゃんは牛若丸で出演したのですが、相手役は三代目・市川段四郎(1908~1963)でした。段四郎さんの奥さんは有名な女優の高杉早苗さん(1918~1995)です。そういうこともあって、段四郎さんが出たんだと思います。その段四郎さんを相手に、高下駄を履いて横笛を吹いている姿が、とても様になっているんですよね。
そのあとヒット曲を歌のですが、万城目正さんが「悲しき口笛」の楽譜を持って出て来るんです。そうするとひばりちゃんがそれを受け取って、
♪丘のホテルの赤い灯も~胸のあかりも消えるころ~ と歌うわけです。
歌い終わったら今度は米山正夫さんが「りんご追分」の楽譜をもって出てくるんです。そうするとひばりちゃんがそれを受け取って、
♪リンゴの花びらが~風に散ったよな~
それはもう、龍が金粉をまき散らしながら天に昇っていくような、素晴らしい勢いでした。
加藤:へえ~、そういう話は初めて聞きました。今日は貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございました。
最後に、岡村さんがお好きな美空ひばりの曲を2曲あげていただきたいと思います。そしてなぜ、その歌が好きなのかを教えていただけますでしょうか。
岡村:平井堅さんという歌手が、ひばりさんの歌は我々のバイブルだと仰ったんですよ。そんなバイブルから2曲というのは大変ですよね。
で、選んだのは「越後獅子の唄」と「ある女の詩(うた)」です。
「越後獅子の唄」では1番に、「♪街道ぐらし~ながれながれの越後獅子~」という歌詞があり、2番には「♪芸がまずいと叱られて~撥でぶたれて~」とあって、これがひばりちゃんに重なって来るのです。
でもね、4番に「♪ところ変われど変わらぬものは~人の情けの袖時雨~」と救いがあるんですね。
これがひばりちゃんの原点なのだと思うんです。
「ある女の詩」はですね、最初に聴いたとき、これで脚本が1本書けると思ったんです。「♪雨の夜来てひとり来て~わたしを相手に呑んだ人~」
橋の架かる細い川があって、そのほとりにうらぶれた赤提灯がある。そこに女の人がいて、そこに男の人がふらっと入ってきてお酒を吞むんです。その女の人はあまり幸せそうではない。
そんな情景をひばりさんが歌うのですが、すごい表現力だと思うんですよ。最後なのでもっと賑やかな曲がいいかと思ったのですが、私はこの曲が好きだったので選ばせていただきました。
加藤:今日は貴重なお話をお聞かせいただき、どうもありがとうございました。
それでは、2曲続けてお聴きください。
「越後獅子の唄」と「ある女の詩」を映写 (終わって拍手)
加藤:どうもありがとうございました。それでは本日、二人目のゲスト、所縁の人というより、親戚なのですが、祖母・喜美枝の弟である重吉さんのご子息です。ご存じの方も多いかと思いますが、母ひばりの従弟の諏訪勉さんです。
2年前はミッキー吉野さんと御一緒に来ていただきました。今日もよろしくお願いいたします。
私は母が東京に移ったあとに生まれていますので、間坂のことは知らないことが多いのです。今日はその辺のことをお聞きしたいと思います。
諏訪:前回、2年前ですけどミッキー吉野君と一緒に出させていただきました。吉野君とは小学校、中学校と同級生で友だちなので、間坂で一緒に遊び、いろいろいたずらもしてきました。今回もどうかと思いお願いしたのですが、29日、30日とゴダイゴのコンサートが明治座であり、そのため今回はちょっと無理ということで、和也さんによろしくということでした。
加藤:ありがとうございます。
諏訪:私は幼少期に、約10年くらい間坂に住んでいましたので、今日はその時のことをお話させていただきたいと思いますが、その前に、ひばりちゃんが間坂に住むまでのことを少しお話させていただきます。
皆さんご存じだと思いますが、昭和12年5月29日に、滝頭でやっていた「魚増」という魚屋で誕生しました。その路地には魚屋さんのほかに豆腐屋さん、傘屋さん、下駄屋さん、八百屋さん、タバコ屋さんなど十数軒のお店が並んでいました。まるで屋根のない市場のようだったので通称「屋根なし市場」と呼ばれていました。
小さい頃は町内のお祭りとか催物に出て歌っていたそうですが、昭和21年1月に旧杉田劇場がオープンしまして、3月、そこに親子で現れ「ぜひ舞台で歌わせてほしい」とお願いし、初舞台を踏むことになりました。
ちょうどその時、大高よしお一座が興行をしていて、幕間に緞帳前で独唱したということです。その後、美空楽団を作り4月に正式に舞台で歌ったわけですが、この時、一緒に出演して踊りを踊ったのが美空マー子ちゃんという人でした。この方はオメガトライブの杉山清貴さんのお母さんです。
その頃のひばりちゃんは9歳(誕生日が来る直前だったので実際は8歳だった)だったのですが、私が9歳の頃なにしていたかというと、ミッキー吉野君と一緒に自転車で山下公園を走り回っていました。それと比べるとすごい差がありますけどね。
それから5か月後ですが、芦名橋にアテネ劇場という映画館ができます。9月にはそこで公演をしたそうです。
そして昭和22年3月、今度は杉田劇場で井口静波(1898~1968)と音丸(1906~1976)夫婦と一緒に出演したといわれています。これがギャラをもらった最初だということで、ひばりちゃん自身はこれを初舞台だと思っていたようです。
この井口夫婦と一緒に四国へ巡業に出かけたのですが、そこでバスが転落するという事故に遭いましたが、奇跡的に助かっています。
ひばりちゃんが最初に杉田劇場に出たときに人気劇団だった大高よしお一座も、昭和21年10月に長野県の木曽に巡業に出かけた際、乗っていたトラックが崖下に転落して、大高よしおは命を落としています。
そして昭和23年、横浜国際劇場の開館1周年記念の興行があり、そこに出演しました。そのときに川田晴久さんと、のちにマネージャーとなる福島通人さんと出会ったわけです。
ここからひばりちゃんがどういう所に住んでいたのかという話になります。昭和24年11月に滝頭町から丸山町へ転居します。敷地100坪、建坪40坪という住宅でした。そして昭和28年11月、いよいよ間坂に御殿が完成し引っ越すことになります(敷地900坪 建物106坪)。
ひばりちゃん自身はこの間坂とう場所を高級住宅地だと思っていたらしくて、いつかはここに住んでみたいと言っていたところ、増吉さんが候補地を探してきたんです。上と下と2か所あったのですが、上の方はちょっと高すぎると、ひばりちゃんは思ったそうです。
下の方はちょうど良い高さで眺めが良くて、風の通りもよく心地よさを感じて、ここを買ったそうです。
ただ、そこはまだ畑だったらしいんですよ。野菜を植えていたので、それを収穫するまで待っていたんだそうです。
加藤:畑だったんですか~! さあ、ここから勉兄さんがうちの母たちと青春時代を送った間坂での生活の話をお聞きしていきます。いろいろ思い出は残っていると思うんですけど。
諏訪:それでは写真を見ながら振り返っていきます。これは昭和28年の8月に行われた御殿の上棟式の様子です。何カットかあって、これは大工さんたちと撮ったものですが、ほかに加藤家や諏訪家の人たちと一緒のもあります。
加藤:この敷地が900坪だったんですね。
諏訪:ひばりちゃんは普通の女の子のように、外に遊びに行くというわけにはいかなかったので、お父さんがひばりちゃんのために、この敷地内にプールを造ったんです。長さ10mという大きなプールでした。
加藤:私は母や婆ちゃんから少し話を聞いているだけですが、勉さんはここでどんな遊びをしていたんでしょうか。
諏訪:ひばりちゃんは忙しかったので、一緒に遊んだという記憶はないのですが、弟の益夫さんとか武彦さんとは、広い庭でキャッチボールとかをしていました。
プールなんですけど、1年間水を張っていまして苔がすごいんですよ。毎年、夏になる前に水を抜いて掃除をするわけです。そして掃除が終わって新しい水が少し溜まったところで私は遊んでいました。
まだ泳ぐことができず浮き輪に乗って遊んでいたときに、落っこちちゃったんですよ。
加藤:ええっ、どこから?
諏訪:浮き輪からです。泳げないから大変です。ちょうどその時、益夫さんか武彦さんか定かではないのですが、駆けつけてくれて助かったんです。
加藤:ほかにどんなことがありましたか。
諏訪:ひばりちゃんは結構犬が好きで、いちばん多い時で10匹以上飼っていました。犬小屋も4つか5つありました。秋田犬もいました。
そんな時に事件があったんです。うちの妹、薫っていうんですけど、これは「伊豆の踊子」でひばりちゃんが演じた薫と同じ字で、その名前をいただいています。
ある日、これが行方不明になっちゃったんです。まあ、庭は広いでしょ、そして大きな池があるし、プールもあるし、みんなで探し回ったんですよ。
加藤:大騒ぎだったんでしょうね。
諏訪:いや~、どこ行っちゃたんだろう、ひょっとしたらと思って犬小屋を覗いたんですよ。そうしたら、‟居ぬ“ではなく、そこにいたんですよ。
加藤:犬と一緒に寝ていたんですか。犬が好きだったんでしょうね。
私も生まれたときから青葉台には美龍という名の犬がいました。
諏訪:いました、いました。
加藤:だから私もそこは被っているんですね。
諏訪:一番大きな犬小屋は2畳くらいありました。
加藤:そんなデカかったんですか。人が住めますね。
諏訪:小学校時代の話ですが、学校から帰って来る時に門まで行くのが大変なんですよ。それでショートカットしてフェンスを越えて庭に入っていたんですが、父に怒られちゃったんです。「お前何やってんだ!泥棒みたいなことして!」って。
そんな父が夜、酒呑んで帰って来たんですよ。家に入るには門で呼び鈴を鳴らして、お手伝いさんに開けてもらわなきゃいけないのですが、面倒なのでショートカットして塀を乗り越えて庭に入ったんですよ。そしたら泥棒が入ってきたと思った犬が数匹寄って来て、嚙まれちゃったんですよ。血だらけになって。
加藤:大けがしたんですか?
諏訪:その頃は猟犬もいたんです。
加藤:番犬も兼ねていたわけですね。あと何か思い出はありますか。
諏訪:ひばりちゃんちは漬物が好きなんですよ。白菜とかキュウリを樽に漬けていました。
あと、飲み物といったらコーラでした。コーラ好きで、ケースで買っていました。私もコーラが飲みたくてね、だけどコーラを飲むと骨が溶けるとか大人に言われて、飲めませんでした。
で、お客さんが来ると、コーラではなくコークハイを出していたんです。
加藤:コーラにウイスキーを混ぜたやつですよね。
諏訪:お客さんが帰ったあと、コーラが残っていたんですよ。そして誰もいないと思って、そーっと行ってそれを飲んだんですよ。そしたら、それはコークハイだったんです。
加藤:ただのコーラじゃなかったんですね。
諏訪:目が回っちゃって、家に帰って「飲んだ」とは言えないですから、なんだか気持ちが悪くて…なんて言ってました。
加藤:それはバレていますよ~。あれ、飲み始めはジュースですけど、飲み終わってから気がつくんですよね。あとで効いてくるんです。
諏訪:あと、間坂の環境なんですけど、高級住宅地というイメージがありますが、あの頃、周りはまだ畑が多くて、旧道で牛が大八車を引っ張っていました。
畑には牛が運んできた人糞をまいていました。その牛が道路に糞をし放題でした。
加藤:田園風景が広がっていたんですね。
諏訪:ただね、間坂の下と上には外国人が住んでいました。その家の門の前には大きな牛乳瓶が空いてあるんです。
その頃の私たちは脱脂粉乳でした。
加藤:牛乳は珍しいものだったんですね。あと何か、記憶に残っているものってありますか。
諏訪:ひばりちゃんの誕生会ですね。毎年お客様を呼んでホールでパーティーをやっていました。
加藤:勉さんは写っていないんですね。
諏訪:子どもは大人の中に入れなかったんです。
後ろに写っているのがバーとホールです。そこにはグランドピアノとか卓球台も置いてありました。私も卓球をやらせてもらいました。
加藤:そうなんですか、卓球が好きだったんですね。青葉台でも卓球台があって、母がやっていました。
うちの母の右隣にいるのが増吉爺さんですよね。左から2人目の着物を着ているのが婆ちゃんですね。
諏訪:その右隣りがシックスブラザーズの小野満さん、その次が大川橋蔵さん、そして鶴田浩二さんです。
加藤:鶴田さんの後ろが勢津子叔母さんですね。
諏訪:小野さんにはだいぶお世話になりました。うちの父はひばりちゃんの運転手をしていましたから、結構留守がちで、幼稚園の運動会なんかは父親が参加できないので、代わりに小野さんに来てもらって、一緒に走ってもらったりしていました。
まだ時間大丈夫ですか?
加藤:はい、まだ大丈夫です。
諏訪:先ほどお話した妹の薫なんですけど、こういう所で生まれ育っちゃったんで、表で遊んだことがないんですよね。
そして、初めて幼稚園に入りましたが、すぐ帰って来ちゃうんですよ。同年代の子と集団で遊んだことないのですから。
そうすると先生がついてくるんですよ。それでひばり御殿の中に入れるんですよ。
加藤:なるほど~
諏訪:やがて妹も慣れてきたのですが、先生が「薫ちゃん、今日は大丈夫?」って聞くんです。御殿の中に入れるっていう、そういうステータスがあったんでしょうね。
加藤:昭和の話っていう感じで、なんかホッコリしますね~。
勉さんにはもっと色々なことがあると思いますが、今日はお時間が参りましたのでこの辺で〆させていただきます。
引き出しがたくさんあるようなので、また次回に取っておきたいと思います。
今日はどうもありがとうございました。
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