旧杉田劇場とは
旧「杉田劇場」の位置は、現「杉田劇場」のある「らびすた新杉田」から国道16号線を南におよそ200メートル行ったところ。現在は国道16号線をJR根岸線がまたぐ、高架下の一帯にありました。杉田劇場の客席から表に出るとそこは海辺でした。
昭和21年から25年当時は市電が16号線を走っており、海岸線を走る市電として皆に親しまれていたようです。展示している「杉田劇場」正面写真には、市電の軌道の跡が見えます。逆にJR根岸線は影も形もなく、現在の新杉田の駅あたりは海でした(磯子駅より洋光台駅までの開業は昭和45年のこと)。
昭和21年の元旦にオープンした「杉田劇場」は、日本飛行機の下請け工場の建物を改修して利用しました。
敏腕プロデューサー鈴村義二氏を招き、戦後のエンタテイメントに飢えていた時代に、開館当初は大盛況でした。
(画像はクリックで拡大表示されます 写真寄贈:片山茂氏)
開館当初の「杉田劇場」において特にヒットしたのが、「杉田劇場」の座付き劇団となった「大高ヨシヲ」劇団。
特に男前の「大高ヨシヲ」さん見たさで満員御礼の日々が続きます。
その噂を聞いたのか、美空ひばりさんのお母様、加藤喜美枝さんが初めて杉田劇場を訪れたのは、杉田劇場の先にあった妙観寺山に花(梅や桜)が咲き誇っていたころ。娘の和枝に大観衆の前で歌わせたいという一心でのお願いに、プロデューサーの鈴村氏ら経営陣が折れて、最初は芝居の幕間に歌わせていたそうです。
芝居の幕間ですから、歌う方にとっては大変な悪条件。転換のために舞台からは怒声と作業音が聞こえ、タバコを吸いに海辺に出たり、喫茶室に行くため席を立つ人も多かったとか。そんな逆境でも、伴奏なしで当時8歳の女の子は、集まったお客様のために一生懸命歌っていたそうです。
プロデューサーの鈴村氏の一言で、加藤和枝さんにステージで歌わせてみようということになり、伴奏なしで歌わせる訳にもいかんということで、楽団を作ること、そして芸名をつけることになりました。「美空楽団」と「美空一枝」(のちの「美空ひばり」)がこの時誕生しました。昭和21年3月から4月にかけて旧「杉田劇場」で起こった出来事です。
その時の貴重な記録が、下のポスターです。
(クリックで拡大表示されます 写真寄贈:片山茂氏)
昭和21年10月、人気役者の大高ヨシヲは不慮の事故で木曽の山中で事故死しました。
座長のいなくなった「大高ヨシヲ劇団」は人気低落、続いて歌舞伎芝居の一座を専属としますが、最初は喜んでお客様が集まっても地元になかなか根付かず、経済的に劇場は苦境が続きます。
(クリックで拡大表示されます 写真寄贈:片山茂氏)
そんな折に地元の有志により舞台幕を新しく寄贈したいという話が出ました。
浜中学校の美術の先生に赴任が決まっていた間邊典夫さんが、10日でデザインを描き上げました。
「杉田らしい舞台幕」にという思いから、杉田のシンボル「梅」と杉田の「海」と、その遠浅の「海」にあふれる「ウミネコ」をモチーフに描かれました。
昭和23年地元の有志の好意による株式購入で、一時的には資金難から立ち直りますが、横浜の中心部に大きな新しい劇場が再建され、映画館も各地に建つようになると劇場の経営は結局行き詰まることに。
こうして、旧「杉田劇場」は昭和25年10月3日に株式会社としては解散しました。
しかし、その後も営業は続き、昭和27年まで貸館として存続していたことが、新聞広告や写真から分かっています。葡萄座の公演や浜中学校の学芸会などで利用されていました。
大高ヨシヲ・千秋実・長浜藤夫・市川門三郎・市川雀之助・五世市川新之助一座・五世市川染五郎(後の初世松本白鸚)・浅香光代・渥美清・美空ひばり(当時は美空一枝)・杉山正子(当時は美空マー子)・劇団葡萄座・浜中学校1-2期生 ほか多数
この歴史ある「杉田劇場」の名前は磯子区民の心に深く残っており、50数年のときを経て
横浜市磯子区民文化センターの愛称として現在によみがえりました。
横浜市磯子区民文化センター 杉田劇場
〒235-0033 神奈川県横浜市磯子区杉田1-1-1 らびすた新杉田4F
TEL:045-771-1212(開館時間 9:00〜22:00) FAX:045-770-5656
E-mail: sugigeki@yaf.or.jp
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